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連載昭和事件史

2020/08/02

彼女を決定的に死に駆り立てたもの

 そんな中、8月22日付時事朝刊「婦人と家庭」欄では「母の務(め)を果した 老いざる未亡人 彼女達はどうしたらよいか?」という識者談話を特集している。記事で興味深いのは、事件に対する当時の読者の反応を捉えたリード部分だ。

「翠川秋子女史の年下の青年との情死事件は、同女史の家出当時、『母の務め終われり』として一人行方をくらましたと一般に考えられていただけに、意外な感を抱かせました。ことにその行動を同女史の『母』の立場からとして解釈し批判した人々にとっては、おのずから別な批判の内容が現れたわけです。ことにこの場合、一般的に考えられることは、女としていまだ老いず、しかもわが子は既に一人立ちできる場合の未亡人――についてです」。つまり、「子育ての義務を果たした母」から「年下の男との恋情に殉じた女」への転換。東朝の見出しにある「母から女へ逆転」に戸惑いを隠せなかったということだろう。識者談話では、のちに東洋大学長を務める高島平三郎・女子高等学園長が「名家出の翠川さんのような方があんなことになるとは、非常時日本の今日、ただもう『遺憾』の二文字に尽きることです」と慨嘆している。

「老いざる未亡人」についての識者評論を掲載した時事新報

「婦人文藝」も10月号で事件関連の特集をしている。評論家丸岡秀子の「職業婦人翠川秋子氏の死をめぐりて―犠牲と自己主張の間―」は、近代的職業女性全般に通じる問題だと主張。「職業婦人座談会」では会社事務員やバス車掌らが男女差別の実態などで意見を交わしている。「社会時評」でも、作家か評論家と思われる狩野弘子という人が取り上げているが、その中で「彼女を決定的に死に駆り立てたものが世間の評判、直接にはジャーナリズムである点を指摘したいと思います」としているのが興味深い。「一度死を決して家を出たものの、やはり生に対する執着から脱することができないでいるところへ、彼女の家出事件が新聞紙上で大きなセンセーションを巻き起こしたために、いまとなっては家に帰りたくとも帰られぬ羽目に陥ったのでした」と分析した。

もう一度生きる決心をしていたのかもしれない

 その見方を裏付けるのが「婦人公論」10月号に載った新保民八「彼女の遺書」という文章。新保は「ブラジル珈琲」の宣伝部員で死亡通知の宛て先の1人で、秋子の死の直前のころ、かなり親しくしていたようだ。文章によれば、秋子から8月5日付の手紙が届いたのは、家出が報じられた翌日の8月7日だったという。「あなたは血もあり涙もある方と多勢の中からただお一人信頼してこんな打ち明けたお話を致しますのですから、何としてお聞き届けください。詳しい事情は日をあらためて拝姿のうえ申し上げますから、いまふりかかった、私の生死の間をさまよっている境遇をお救いくださる意味で25円電報為替で送ってください。大至急を要しますので……」。当時の25円は2017年換算で約5万1000円。すぐに送金すると、8月9日付でお礼の手紙が来た。新保が20日に旅行から帰ると、3通目の手紙が届いていた。中からヘビの革の女物の煙草入れと丸い琥珀が出てきた。手紙の内容は要旨、次のようだった。

 人として帰って行く家を持っているということは、それが楽しからずとも幸いであるということを、今度家を離れてみて初めて味わった偽らざる告白であります。

 

 独りたそがれの海辺に立ち、または上弦の月の美しさを心ゆくまで眺めながら、いつも帰る家なき身をいかに寂しく、いかに悲しく思ったでしょう。自分で自分に見切りをつけたとはいえ、私はまだ働かれる可能性があると思えば、心残りが自然と胸を打つ。子たちの前途の幸福を祈るには、私が現世になまじの活動をしているよりか、神か仏の力を得べく、自分の霊を捧げて守護する方が力強いと思ったのです。

 

 ことに、あくまでも子たちの前途のため、私のことは秘密にとの全ての頼みを××紙上に暴露している。そのうえ知名の人たちの批判まで仰いでいるなどは全く心ない仕業であり、ますます私をして死地に陥れてしまった。

 

 家を離れ静かに考え、頭が冷静になると同時に、いろいろ計画したことの誤りをはっきり知り得て、またそこには場所に対する種々偶然な故障も突発し、海軍の演習とか、その他海水浴場に起こるいろいろの出来事に遭遇して、本意なくも実行し得られないようになって、たった一人、私の本心を打ち明ける人として、あなたへの救援のお願いをしました。

 

 過去十数年の私の奮闘は、私に何の報いられるものもなく、世間はむしろ冷酷に浮薄な批判と嘲笑に葬っているばかりでした。いつも新しい計画と事業に夢中になって働き、都合のよい下積み役をのみやってのけてきました。侠気のためにかえって人に裏切られ、地位を奪われ、汚名まで着せられたこと、一再ではありません。それはもちろん、自分の至らないことをはっきり考えさせられてはいますが、いかに強がっても女は女でした。

「婦人公論」1935年10月号より