日本初の女性アナウンサーとなった翠川秋子は、夫と死別した後、職業女性として2男1女を育て、ほぼ成人したのを見届けて家出。十数歳年下の男性と海で心中して果てた。
まだ社会で活躍する女性が少ない時代。「女手一つで子どもを育て上げ、亡き夫への責任を果たした」という見方と「母から女へ転落した」という批判が世間を騒がし、彼女の身の処し方には毀誉褒貶が湧き起こった。女性の社会進出をめぐる偏見と軋轢はいまもなくなったとはいえず、彼女の生き方は現代にも問題提起となる。果たして彼女の真意はどうだったのか――。
※「未亡人」という差別語が登場しますが、当時の状況や背景を紹介するためにここでそのままで紹介いたします。
「初代女アナウンサー悲しき母の一生」
「三児を見事育てあげ 任務終れりと家出す 初代女アナウンサー悲しき母の一生 永遠の憩ひを死へ?」。1935年8月7日付(6日発行)読売夕刊2面は大々的に見出しを立て、リードでこう書いた(読売はこの一報では「碧川秋子」と誤記している)。「夫に死別して十余年、かよわい女手一つに三児を抱えて、生活の荒波と闘い抜いてきた愛の母、日本最初の女アナウンサーとして有名だった碧川秋子女史、それぞれ巣立って自活の道をたどるようになった子らの成育をもって『母の任務』終われりとして長い苦闘に疲れ果てた身の温床を“死”に求めて突然失踪してしまった。愛児のためにだけ一生を捧げた母の悲劇である――」。記事には「死の家出した碧川女子」の説明を添えた写真が載っているが、当時まだ珍しい断髪、洋装で非常にモダンな女性の印象だ。
記事本文は次のようだ。
「四谷区新宿1ノ21新一アパート内、元アナウンサー碧川秋子こと荻野千代女史(43)は去月(先月)25日、和服姿で飄然と家出したまま帰らないので、6日、家人から警視庁に捜査方を願い出た。荻野女史は東京女子美術学校を卒業して、十数年前、京橋貯蔵銀行支店に勤めていた夫秀夫氏に死別した後、(埼玉)蕨のダンスホール『シャンクレール』にダンサーをしている長女美代子(24)、丸の内某会社に勤めている長男敏雄(22)、日本郵船平安丸に乗り組んでいる次男輝雄(20)の三児と亡夫の母(秋子の実母の誤り)とを抱えて、女の細腕一つで育てあげてきた典型的な気丈な母で、また文学女性でもあった。
日本最初の女アナウンサーとして愛宕山に名をはせてのち、成女高女の図画の教諭、白木屋の機関雑誌編集などを勤めるかたわら、原稿稼ぎをしたり屋台のおでん屋をやってみたり、彼女の子どもゆえの悪戦苦闘は想像以上であった。最近はこの奮闘がようやく報いられて、子どもたちはそれぞれの道に自活できるようになり、自分も日本観光協会嘱託として、長い生活の不安はぬぐわれた」。