「幼い者たちの寝顔の前に幾夜泣き続けたか知りません」
11月のある日、料理献立と家庭講座のアナウンスを終えて放送部事務室に行くと、当直明けなのか、洋楽部職員の男性が丹前姿で部長席に座っていた。「オイ君、アナウンスの終わりに『ございます』はよくないぜ。以後注意した方がいい」と言われ、「服部部長にその方がいいと言われた」と返したが口論となり、男性に殴られた。現場を目撃した女性によると、秋子は自分の机に戻って顔を伏せて泣いたという。「告訴する」と訴えたが、服部部長になだめられ、そのうちある新聞に3日間にわたって秋子に対する罵詈讒謗(悪口を言って中傷すること)が載った。その内容と彼女の反論を「女性受難十二章」から見る。
(1)朝早く、いつも違う男と自動車に同乗して歩き回っている
→否定する必要のない事実。放送係だけでなく講演係も兼ねている関係上、時間に遅れて来られては迷惑だから、自動車で迎えに行く。同伴して(愛宕)山まで来るのだから、毎日人は違うし、男も女もある
(2)帝国ホテル、ステーションホテルなどから出てくるのを見かけた
→人を多く訪問する関係上、出入りしないとも限らない
(3)講演者がたやすく依頼に応じるのは、秋波をもってその弱点につけ入るからで、依頼する講師の大部分は「醜関係」にある者
→断然そんなことはない。と言ってみたところで、見る人の心ごころで、色眼鏡で見ては白い物も汚れる道理。私自身としては何とも言えないことと思った
(4)周囲を取り巻く男は全部関係のある者で、そのうちに夢中になっている愛人がある
→侮辱の甚だしいもの。だが、これは私自身とその境遇を全然知らない者だけにしか通用しないと思った。仮に真の愛人があったとしても、その相手が局内の者でないならば、私的問題だから、勤務を怠らない限り、局そのものとしては拒否したり叱責したりする何の理由もないこと当然
この回答自体、既に諦めがにじんでいる。「私は人前でのほほえみを忘れずに、一人夜更けの郊外の家に老いたる人、幼い者たちの寝顔の前に幾夜泣き続けたか知りません。かくて大正15(1926)年の1月に山を去りました」(「女性受難十二章」)。
それでもメディアは彼女を放ってはおかなかった――。