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「ああ神様、どうか幸福を与えてくださいませ」

 1930年6月6日付報知新聞家庭欄の「新婦人日記」には「職業を持つ女 温い友情に感激」の見出しで「雑誌『皮肉』主幹」の「荻野千代子」として登場している。友人と「サン・スーシー社」を設立。雑誌「皮肉」の刊行を始めていた。しかし、その雑誌もうまくいかず、読売の失踪の1報にあったようにおでん屋も失敗。「初代女性アナ翠川秋子の情死」は「この店が立ちゆかなくなったことも『死の清算』と無縁ではない」と書いている。

 遺体発見前の8月16日に刊行された「婦人公論」9月号に、「姿なき母の言葉」と題した次男輝雄の文章が掲載された。そこには、秋子の回顧録の一部も。「維新前には与力という武士の家の一人娘として生まれ、父が拝領の地・日本橋亀島町1丁目27番地で呱々の声をあげてから、近所の人たちは地主様のお嬢様として、ただわけもなくもてはやした」という生い立ちや、結核と思われる病気で夫を失った後に「石にかじりついても独立して子どもを一人前にしてみせる。私は決心した」と決意したこと、数多くの職業体験の苦労とそこから生まれた子どもらへの思いもつづられている。

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「世の中はせちがらい。家庭の内で考えていたようなものではない。成女高等女学校の教諭といったところで、単科の受け持ちであれば、大した給料にはならぬ」「家庭教師となる。夜はレターペーパーの図案やその他の賃仕事で(午前)2時3時まで働く。夜更けて床に入り、部屋の内を見渡すと、子どもの守りに疲れ果てた老母が無心にすやすやと眠っている傍らに、無邪気な寝顔を見せる3人の子ども。末はどうなることかも知らず、ただこのやせ腕を頼りにして芋づるのようについている、この4人の者。ああ神様、どうか幸福を与えてくださいませ。私の命を縮めてもみんなの生活がなんとか安定しますようにと、あたかも自分の命数が千万年もあるかのような無理な願いも起こしてみた」……。

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「派手なサマードレスを着た女の死体が漂着」

「母から女へ逆轉(転) 翠川女史情死 派手な海水着の死體(体)浮上がる 男の行方は尚不明」(東朝)、「房州の海にボートを漕出し “運命の豫(予)約”を果す」(東京日日=東日)。1935年8月21日付夕刊各紙は大きく秋子の遺体発見を報じた。

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「千葉県館山北条町、山中旅館に滞在中の自称・東京市麻布区笄町1-2工政会社員・黒田潔(30)、同妻・洋子(39)の両名は19日午後3時ごろ、北条海岸から貸しボートで館山湾外に乗り出したまま帰来せず行方不明となったので、届け出により北条署で捜査中、20日午前7時半ごろ、館山湾内西岬村坂田地先海岸に、40歳ぐらいの首飾りをつけた、派手なサンマー(サマー)ドレスを着た女の死体が漂着。前記洋子なる者の死体と推定され、北条署員が検視に向かった。同署では死の道行きか激浪のため遭難したのか不明で、謎の死として警視庁に照会する一方、引き続き捜査を続けている。この男女の身元は、北条署で取り調べの結果、女は初代アナウンサーとして家出中の東京市新宿、翠川秋子こと荻野千代(43)、男は東京市豊島区池袋町2丁目1166、弁護士法学士・藤懸重次氏の長男で東京蒲田区役所吏員・藤懸羊次君(29)と断定され」たと東日は報じた。