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連載昭和事件史

2020/08/02

 手紙は日付がなかったが、館山郵便局の消印は19日。帯留め用の琥珀を包んだ紙に1句が書かれていた。

四十年 有耶無耶(うやむや)にして 今朝の露 千坊(秋子の俳号)

「悲痛な遺書が語る通り、死の決心をもって家を出た翠川氏が、静かに省みることによって自分を取り戻し、も一度生きる決心をした時、追いかけてくる無理解な世間の批評と賛美が、彼女を抜き差しのならないような立場に置いてしまった」と新保は書いている。

「死ぬという覚悟を持って当たれば、どんな誘惑にも暴力にも打ち勝たれる」

 この「婦人公論」には、娼妓解放運動など社会活動にも尽力した牧師作家・沖野岩三郎の「翠川秋子の秘密」という文章も載っている。沖野は放送局勤務時代の秋子と知り合ってから、長年親交があった。その文章からは秋子についていろいろなことが分かる。

 脳出血で長患いしていた秋子の母が死んだ時、沖野は秋子に頼まれて葬儀費用に新聞社から挿し絵の原稿料を代わりに前借りして渡した。そのとき、秋子は「死ぬという覚悟を持って当たれば、どんな誘惑にも暴力にも打ち勝たれる。世間からとかくのうわさをせられる私は、近頃になって、堂々と衆目の中を闊歩する一つの秘訣を覚えました。それは、誰に何と言われたって、自分自身に寸毫(少し)もやましいところのない生活をすることです」と語ったという。

 この事件の流れを見たとき、やはり気になるのは、家出をしてから実際に海に出るまでの1ヶ月近くの時間だ。狩野や新保が書いた通り、遺書まで書いて「死への旅」へ出たものの、そこから新たな生への希望など、さまざまな思いが生まれたのではないか。そもそもは自分の意思から出たこととはいえ、新聞などのメディアの圧倒的な“決めつけ”で後戻りできなくなってしまったのが真相ではないか。メディアが彼女を殺したとは言い過ぎでも、最後に死に追いやったのにはメディアにも責任があったと考えざるを得ない。「母としてどうか?」「女としては?」という視点からの批判に加えて、「無関係な若い男性を巻き込んで」という非難もあった。しかし、それらは少しずつ当たっているが、多くは外れている気がしてならない。彼女が本当に求めたのは、何にも制約されない人間としての自由な生き方だったのではないだろうか。

【参考文献】
▽澤地久枝「初代女性アナ翠川秋子の情死」=「続昭和史のおんな」(文藝春秋 1983年)所収=
▽NHKアナウンサー史編集委員会編「アナウンサーたちの70年」 講談社 1992年

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