1980年代の思い出が小説のベース
山口 『げいさい』には1986年の美大での、学園祭の一夜のことが書かれていますね。これは会田さんの経験が反映されているというか、事実に即しているんですか?
会田 ベースはそうだと言えます。最初にこういうのを書きたいなと思ったのは、大学2年生のころ。僕は一浪して東京芸大に入ったんですが、予備校に残って三浪くらいしていた友だちから彼女と別れたという話を聞いた。予備校で出会い付き合っていたのに、彼女は多摩美(術大学)に入って境遇が変わり、ソリが合わなくなったのだとか。彼は結局芸大受験を諦めて、アメリカの美大に留学した。
友人として聞いていても、こういう悲劇はつらい。若者たちを翻弄する美大受験システムへの怒りを、物語に書いて昇華したいという気持ちが湧いたんです。
山口 ということは、『げいさい』は構想ウン十年ということになりますね?
会田 構想だけで言えば30年以上ですね(笑)。学生時分には結局手をつけず、美術家としてデビューして間もない1997年に、いちど本気で取り組んでみたんです。でも、原稿用紙100枚から200枚くらい書いたところで挫折してしまった。それは小説を完成させる技術が足りなかったことと、怒りがちょっと強すぎたんだろうなと、振り返れば思いますね。
いま僕は54歳になって、美術アカデミーと関係していた時代がずいぶん遠くなり、「日本の美大システムは間違っている!」という心の青臭い叫びもさすがに薄れてきた。書こうとする対象とほどよい距離感が保てるようになり、ようやく書き上げることができたんでしょう。
日本の美術界についてどう思い、どのように捉えているか
山口 でも、それだけ長年にわたって「このお話はいつか書こう」と思っていたわけですよね。このテーマがそれだけ大切なものだったということですか? ミヅマアートギャラリーのホームページでの『げいさい』刊行のメッセージには、
「小説という姿をしていますが、実は美術作品です」
とも書いていらっしゃって、すごく思い入れがあるんだなということを感じます。
会田 そうですね、僕が芸術の仕事をしていくにあたって、日本の美術界についてどう思い、どのように捉えているかは、ちゃんと言葉で示しておきたかった。だからいつかきっと書き上げたかったし、ここ4年ほどかなりの時間を費やしたのも、これは大事なことだと感じていたがゆえですね。
山口 そうなると、主人公の本間二朗くんは、ご友人がモデルなんですか? それとも会田さん自身もかなり投影されている?
会田 自分も含めて何人かの知り合いがブレンドされている感じでしょうかね。僕は新潟市の平凡な住宅地で生まれ育ちましたが、作中では田舎から出てきたインパクトを強めるために、二朗の出身地を佐渡島にしてあります。