催促に催促を重ねて
前線では、連合軍の激しい攻撃にさらされ、将兵が傷つき、倒れ、あるいは飢えと病いに苦しんでいる時である。牟田口軍司令官に対して憤激したのは、第一線部隊だけではなかった。第15軍の上級司令部である、ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促した。
シンガポール攻略の勇将には、たえがたい不名誉である。だが、牟田口軍司令官は動かず、督促は再三に及んだ。そして、ついにメイミョウを出ることになったが、急進急追しなかった。そればかりでない、シャン高原をおりて、イラワジ河を渡ると、中間基地のシュウェボでとまってしまった。そこには、料理屋が新しくできていて、軍司令部と前後して芸者、仲居がメイミョウから出てきた。
方面軍司令部は、さらに督促を重ねた。その結果、牟田口軍司令官は幕僚と共に、チンドウィン河を西に越えて、インダンジーに戦闘司令所を置いた。昭和19年4月20 日である。通称名を弓と呼ぶ、第33師団がインパール作戦を開始した3月8日から数えて44日目であった。牟田口軍司令官の計画による予定の3週間は、遥かに過ぎていた。
すでに戦力を半減した三個師団のうち、通称名を烈と呼ぶ第31師団は、インパールの北コヒマで膠着して動けず、通称名祭の第15師団は、師団司令部が襲撃されて、再三、逃げて移動していた。
弓第33師団はインパール盆地の西側の山地に進出したが、ビシェンプール一帯の強大な防御陣地に阻まれていた。
対立していた師団長を更迭
こうした状況に対し、牟田口軍司令官は憤激し、4月29日の天長節(天皇誕生日)を期して、インパール攻略を命令した。 その天長節も過ぎて、各戦線はますます困難を加えた。その上、5月になると、インド、ビルマは雨季に入り、連日の降雨となる。ことにインパールのあるマニプール州、 その西のアッサム州は豪雨地帯で、年間雨量は世界一である。
牟田口軍司令官はあせり立って、あくまでもインパール攻略の決意を変えず、第33師団のビシェンプール方面に攻撃の重点を形成しようとした。そのため、方面軍から増強された各種の部隊のことごとくを、第33師団に配属することにした。
さらに、軍戦闘司令所を弓の第一線に進め、牟田口軍司令官もそこにいて督戦に当ることにした。
そればかりでなく、弓の師団長、柳田元三中将を更迭することにし、その処置をとった。柳田師団長は、この作戦の当初から失敗を予測し、中止することを進言して、牟田口軍司令官と対立していた。 5月11日、牟田口軍司令官は参謀長・久野村桃代中将を伴い、護衛兵をつれて、20名あまりが自動車に分乗して、インダンジーを出発、弓師団方面に向った。