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2020/08/22

影響を受けた伝説のツッコミ職人の存在

 小峠の魅力は多々あるが、その根底となっている芸人魂はどこからきているのか。私は、事務所の先輩でもあった伝説のツッコミ職人、故・村田渚の存在が大きかったのではないかと考えている。

 村田は、1989年に中学校の同級生だった桶田敬太郎とお笑いコンビ「フォークダンスDE成子坂」を結成。いくつかの賞レースで優勝し、バラエティ番組でも活躍したが、1999年12月に解散。その後、村田は「鼻エンジン」というコンビを組んで活動していたが、2006年11月にクモ膜下出血のため、志半ばの35歳という若さで亡くなった。

小峠が尊敬している“伝説のツッコミ職人”村田渚(SMA-NEET-Project公式サイトより)

 小峠は、村田を尊敬していた。それは、小峠のブログに掲載された村田に対する追悼記事(2006年11月28日付)を見ても明らかだ。

 初めて村田のツッコミを見た小峠は、「何やあの“間”の取り方は!?」と衝撃を受けた。それから、村田に積極的に話しかけるようになり、「何で渚さんはあんなにおもろいやろう」と、風呂に入りながらでも考えるようになったという。

 連絡先を交換し、よく飲みに行くようになると、2人はお笑いの話ばかりしていた。ある時、村田から「言葉を一切発さずに、人差し指と中指の2本だけでボケてみろ。俺ツッコむから」と言われて、なんとなく指を動かすと「お前はよう分かってるな」と初めて褒められた。

 褒められたこと自体、小峠は嬉しかったはずだ。しかし、そこで小峠は異様な事実に気が付いた。村田は小峠の指に対してではなく、“指そのもの”の動きに対してツッコんでいたのだ。これに小峠は面食らった。「俺がボケたんやなく、指がボケた感じ」だったそうだ。

 小学生の頃から小峠は、大のお笑い好きだった。周囲の芸人からも「俺はお笑い好きやけど、お前ほど好きじゃない」と言われたこともある。そんな小峠が、「悔しいけど、俺より笑いの事好きなんやなあ」と認めざるを得なかったのが村田だった。村田は、お笑い好きではなく「笑いに狂ってる」のだ。

「桜を見る会」に招かれたことも(2019年4月) ©文藝春秋

 村田の訃報を受け、小峠はある決意を固める。

「少しでもあの人に近づけるよう、もっともっとやらんと。好きくらいじゃアカンわ。狂わんと」

 これを書いた約6年後、小峠は「キングオブコント2012」で優勝を果たした。以降、小峠はテレビでブレイクし、誰もが認める人気者となった。

 小峠の魅力に共通するのは“異常なまでのまっすぐさ”だが、その魅力をお笑い芸人の力として開花させたのは、村田渚という存在だったのではないだろうか。

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