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2020/08/29

genre : ニュース, 社会

「山一抗争」は、1985年1月から1987年2月までの2年余りにかけて317件の事件が発生し、日本の暴力団史上最悪の対立抗争とされる。山口組4代目組長に竹中正久が就任したことを不服としたグループが離脱して一和会を結成。85年1月、組長の竹中が一和会系組員に射殺されるなど25人が死亡、70人以上が重軽傷を負った。

山口組の竹中正久組長射殺事件で、容疑者を立ち会わせて行われた事件現場マンションの実況見分(大阪・吹田市) ©️時事通信社

 当時を知る山口組系幹部が山一抗争の際の「代紋」の重要性を踏まえて解説する。

「山一抗争の際には、離脱した一和会は『山菱の代紋』を捨てた。それまでは山口組のネームバリュー、山菱の代紋というブランドがあったから、内部の統制というか規律もしっかりしていた。しかし、一和会は山口組の名も山菱の代紋も捨てたことで体制を保てなかった。

 神戸山口組には、この山一抗争の教訓が絶対にある。だから、山口組の名称と山菱の代紋を使い続け、真の山口組は自分たちだからと堂々と山口組を名乗る。6代目側からは許しがたいことだが」

 こうした点について、暴力団捜査の長いベテラン刑事も同様の見解を示す。

「やはり、『山菱の代紋』を掲げる意味は大きいのではないか。国内最大組織の威光は全国に及んでいる。6代目側も神戸(山口組)側にしても、『自分たちこそ山口組だ』と思っているのだから、ここは譲れないのだろう」

 さらに山一抗争と今回の分裂についての相違点について指摘する。

「山一抗争の際には、離脱した一和会は『4代目を認めない』として出て行った。4代目組長の竹中の(親子)盃を受けていないから、山口組から独立するということも自由だという主張も成り立つ。しかし、神戸山口組に参加した組長たちは、6代目(組長の司忍)の盃を受けた。分裂は盃を突き返したという点で大きく違う」(同前)

 この点について6代目山口組側は、「逆縁」「謀反」などと神戸山口組側を強く非難し続けている。

「山一抗争」もう一つの教訓

 2015年8月に山口組の分裂が発覚した当時、警察庁幹部は「個人的な見解だが」と前置きしたうえで、「今回の分裂でも対立抗争事件は起きるだろう。しかし、神戸山口組は6代目(山口組)のトップを狙うようなことはないだろう」と指摘していた。その理由について、やはりここでも「山一抗争の教訓」を強調した。

 山一抗争では、一和会はトップの竹中を暗殺して決着をつけようとした。しかし、実際に暗殺が実行されると、山口組側はその衝撃から強烈な求心力を得て、激しい巻き返しに走り、一和会はその勢いに抗し切れずに劣勢のままで崩壊した。一和会トップの山本広が山口組側に謝罪することで終結した経緯があった。