「これは大変なことになった」
野崎は54歳になるが、彼の場合は、ここまで電鉄本社ビルで仕事をしたことがなく、旅行一筋、リスクを取り、時にはクビを覚悟で稼ぎ続けてきたのだから、社長室とまではいかなくても、そろそろ電鉄本社でマネジメントの勉強をしてみたい、という気持ちがある。大卒社員は必ず一度は社長室周辺のルートを通るのである。
それもあって、野崎はタイガース出向を言い渡した専務の寺島に向かって、
「冗談でしょう。これは人選が間違っています。私に野球の世界は無理です」
そう抗ったのだ。が、上役は「そう言わず、頼む」と苦笑いで抵抗を封じた。
「三好社長も、君を望んでおられる。社長に協力をしてあげてください。ただ、難しいところですから、マスコミとの付き合いにはくれぐれも気を付けて」
──これは大変なことになった。
全国的にみると、社員約80人の阪神球団は阪神電鉄よりもずっと有名で、阪神電鉄グループの中で格も高い。野崎が東京で外務省や文部省(現・文科省)などを回ると、「阪神電鉄といえば、阪神球団の子会社ですか」と尋ねられたものだ。だが、阪神球団の役員は電鉄本社の主事1級、つまり部長級なのだった。ちなみに主事2級は課長級、主事3級は係長級である。
──球団の社長といっても、電鉄本社の役員を辞めた人か部長クラスや。普通にしてたら「タイガースの社長さん」と言ってくれて、本社に忖度している限り、居心地がええ。チームが負け続けても、球団は儲かっていて、何年も社長を務められるから、進退を賭ける必要なんかない。下手に改革の旗を掲げたりすると、人を辞めさせたりせなあかんし、下から反発を受けるわ、電鉄本社から嫌われたりするわ、大変なことになる。じっとしとけば、部下もしんどくなくて、仲良くできて、上の言うこともハイハイ聞くようになる。
野崎の顔つきが曇るのは他にも理由がある。阪神電鉄本社は「ケチ虎」と言われる渋ちんである。給料も高くない。球団社長にしても、ライバル・読売巨人軍社長の3分の1程度だと言われている。それなのに、巨人や東京に反立して創設された伝統の人気球団だから、ペナントレースで負け始めたり、もめごとがあったりすると、関西のスポーツ紙や雑誌から猛烈な批判を浴びる。
監督や選手はスポーツ記者たちのネタ元だから、叩き具合にも手加減があり、優勝でもすればたちまち「神様」「仏様」に昇格するのだが、ひとからげに「フロント(front office)」と呼ばれる球団役員たちに関しては書き放題、〈またも、お家騒動〉〈相次ぐ更迭〉などと書き立てて、大変な騒ぎようである。
それでも、何とか本社に戻ったり、めでたく電鉄本社の役員兼務に就いたりした者もまれにいるが、叩かれて傷つき、辞任に追い込まれる者が少なくない。
(中略)