恋愛もクラシック音楽の中で起きる
だが、『のだめカンタービレ』は本来そういう物語ではない。普段ののだめに対して千秋先輩の当たりがやたらと強いのは、「千秋が魅了されていくのはのだめの女性的魅力ではなく、のだめの音楽的才能である」ことを表現するためだ。
原作もドラマもそうなのだが、この物語においては音楽が恋愛の比喩である。千秋先輩とのだめとのキスなどのラブシーンの描写もあるにはあるが、それらは音楽に比べて実にあっさりと処理され、代わりにクラシック音楽が恋愛の比喩として使われる。そこには出会いと別れがあり、嫉妬と倦怠があり、永遠の愛の誓いがある。人間が恋愛で経験するほとんどすべてのことが、バッハやモーツァルトやベートーベンを比喩として語られる。
「本当のことは歌の中にある」というのは斉藤和義の名曲「歌うたいのバラッド」の一節だが、「カンタービレ(歌うように)」という題を冠したこの物語の中で、愛に関する本質的なことは身体の間ではなく、すべて音楽の中で起きるのだ。
「これが正解、これしかない」上野の演じた“のだめ”
そしてそのためには、普段ののだめは「だめ」でなくてはならない。男受けする、幼さを魅力にするのだめであってはならない。誰も実写で演じたことがないお手本のない状態で、上野樹里は最初から完全にそれを理解していた。彼女の演じるのだめは逸脱し、どこまでも「だめ」で「変」な、そしてそれ故に自由なのだめだった。
第一話を見れば「やりすぎなのでは」とさえ思えるのだめが、回を追うごとに「これが正解、これしかない」と思えてくる演技は、まるで劇中ののだめが聴衆の度肝を抜くような斬新な解釈でバッハやモーツァルトの名曲を弾き始め、やがて聴衆を飲み込んでいく姿と重なるようだ。
過剰なまでに崩したのだめの「だめ」の表現は、グランドピアノに向き合った時に一変する凛とした表情の落差を計算した演技であり、それはクラシックの素養のないテレビの観客に、欠落とギフトが表裏一体となったのだめの才能のあり方を鮮烈に焼き付けた。
音大に通いながら読譜を苦手とし、耳で聞いただけでクラシックを分析し再構築してしまうのだめと呼応するように、「今でも本を読むのは苦手で、2時間ドラマの脚本を読むのに5時間かかってしまう」とインタビューで語る上野樹里は、原作漫画に書かれた美しい譜面を生きた演奏に変えることができる稀有な女優だった。