極真王者か、ムエタイ戦士か
サマン・ソー・アディソンは1966(昭和41)年6月21日、のちに国民的スターとなるデビュー2戦目の沢村忠から16度のダウンを奪い、4回KOで初黒星をつけたタイ選手だ。山崎はその試合を会場の東京・渋谷リキパレスで観戦していた。サマンのしなるような蹴りの連打、接近戦の膝、顔面への強烈なパンチが空手着を身にまとった沢村へ襲いかかった。その光景を鮮明に覚えていた。
全日本選手権大会を制してから、わずか13日後。極真王者となり、初めての試合。しかも絶対に負けられないムエタイとの他流試合である。
闘志を燃やしていたのはサマンも同じだった。空手着を初めて着て、極真の全日本に臨んだが、ルールの違いに戸惑いを隠せず、初戦敗退。今度は自らが主戦場とするキックボクシングでの闘いだ。当時の新聞には「ルンピニ・スタジアム系前ライト級1位」と紹介され、試合前はこう意気込んでいた。
「空手は日本の国技だし、慣れない僕たちが負けても当然だろう。しかしタイ式ボクシング(キックボクシング)は僕らの国技だ。負けるはずがない」
ムエタイのプライドを胸に、国技の威信をかけ、リングに上がってくるのだ。
10月3日、所沢市民会館。観衆2000人(主催者発表)。
強いのは極真王者か。それとも沢村を16度倒したタイ戦士か。試合という枠でくくることのできない、ただならぬ雰囲気。殺すか殺されるか。果たし合いである。それはサマンの気質に由来するのかもしれない。
この試合のレフェリーを務めたタイ人のウクリッド・サラサスがサマンの破天荒な私生活を明かす。「サマンは来日中に目黒の宿泊先から飲み屋に行って、暴力団3人と喧嘩になった。そのとき、包丁を持ち出した相手の手を蹴って、やっつけたんだ。すごく気性が荒い選手だったからね」
山崎もリングで対峙した瞬間、すぐに感じ取った。「同じムエタイでもカンナンパイは紳士的。でも、サマンには殺気がある。それが伝わってきたんだ」
緊張感の中、ゴングが鳴る。
サマンが仕掛ける。いきなりのラッシュだ。主導権を握ろうとしてくる。山崎はいつものように前羽の構え。動かない。微動だにしない。
30秒、1分…。ゆっくり左に回る。そして、左足だけをスパーンと振りかざした。まるで鉈(なた)で切るかのごとく。
「綺麗な左の回し蹴りで倒した。これまでで一番綺麗に倒したと思う。『パンチで倒した』と書いてある本もあるけど、あれは得意中の得意の左の回し蹴りだよ」
あの感覚がよみがえる。
東京・日暮里の4畳半のアパートの部屋。4キロの鉄げたを足に巻き、裸電球から垂れるスイッチの紐をひたすら蹴り続けた。足を思い切り振り上げ、素早く引く。住人に響かぬよう、まったく音を立てずに足を下ろす。あの動きだった。
息を詰めていた観客のどよめきがワンテンポ遅れて追いかけてきた。