天才空手家・山崎照朝。――大山倍達の空手の体現者として極真の第1回全日本選手権大会優勝、そして梶原一騎から寵愛され『あしたのジョー』の力石徹のモデルとなる。『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』(東京新聞)が描く、孤高の空手家の半生とは。
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サマン戦が生涯一番
山崎の現役時代を知る関係者に取材をしたとき、最も印象に残っている試合、ベストファイトを必ず聞いて回った。ほとんどが極真の第1回全日本と答え、残りは山崎の名を世に知らしめたキックボクシングの2戦目、1969(昭和44)年4月のカンナンパイ(タイ)戦を推した。ただ、山崎自身は別の試合を挙げる。即答だった。
「サマン戦が一番いいよ。やっぱりさ、沢村忠がやられているのを生で見ていたから。気合が入っていたな」
山崎は1969年に歴史に残る3試合(大会)をしている。
4月のカンナンパイ戦と9月の極真第1回全日本選手権大会。そして10月のサマン・ソー・アディソン(タイ)戦である。
1969(昭和44)年6月24日、NET(現テレビ朝日)は「チャリティサマーフェスティバル」と題し、東京・蔵前国技館でかつてないビッグイベントを予定していた。2部構成となっており、1部は歌手の仲宗根美樹、山本リンダ、ジェリー藤尾らがリングで歌謡ショーを行い、2部はキックボクシング。そのメインに登場するのが山崎だった。三たびキックボクシングのリングに上がることも嫌だったが、他にも気に染まないことがあった。
対戦相手は2カ月前にKOしたばかりのカンナンパイ。もう既に決着はついていた。しかも初戦の後、互いの技術を認め合い、交流が生まれた。ムエタイ独特のリズムに乗った蹴りの連打は空手にない動きである。少しでも習得しようとカンナンパイやトレーナーらと一緒に練習する機会が増え、互いに知った仲になっていた。これまでの「極真」の看板を背負って、死にもの狂いで闘った2試合とは明らかに違う。気持ちが入らないのだ。