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2020/09/26

礎になった伊豆・稲取合宿

 1983(昭和58)年8月13日から3日間、伊豆の稲取温泉。

 山崎は初めて全女の合宿に参加した。ここで長与&飛鳥ペアが本格的に始動する。練習メニューは体力づくり、基礎トレーニング、空手の基本稽古だった。すべて山崎自らが実践してきた練習、極真の稽古が軸になっている。夜には長与と飛鳥を記者が宿泊する大部屋に呼び、3人で空手の特訓をした。

 全女の広報を務めていたロッシー小川は山崎が明確な線引きをしているのが分かった。

「プロレスに対して意見を言うことはなかったです。技を細かく指導をすることもない。(女子)プロの領域がある。そこは口を出さないし、絶対に侵さない。基礎体力はプロレスも空手も関係ないですから。まずは山崎さんが自分でやってみせる。それは説得力がありますよ。口だけじゃないから。あの合宿で長与、飛鳥と先生の連帯感ができて、その後のクラッシュの礎になりました。稲取の合宿がなければ、彼女たちの試合は形成されていないと思う」

プロレスと空手の融合を目指し、長与千種(左)とライオネス飛鳥(中央)を熱心に指導する山崎 提供・山崎照朝氏/東京新聞

 一方で、山崎が真剣かつ柔軟に魅せることを考えているのも伝わってきたという。

「山崎さんは試合の中でどうやって空手をプロレス技として使っていけるのかをすごく考えていた。真剣勝負の道を歩んできた人が『この技は見栄えがいいよ』とか『この技が映えるんだけどなあ』と言ってくる。そのためには基礎が必要だ、と。意外に柔軟な人だなと思いましたね」

 朝、昼、晩3時間ずつ、1日計9時間の練習。休憩時間は1時間しかない。選手は部屋に戻り、バタンと倒れて一呼吸置くと、すぐに次の稽古が始まる。山崎は試合後に「本当の涙」を流させないため、練習で泣かせた。

 レフェリー兼コーチとして山崎とともに指導したボブ矢沢は、オーナーの松永兄弟が合宿を見ながら、話していたのを覚えている。

「これまで親父(松永健司)とか、先輩選手がやっていた練習と違って、かなり追い込んだ方法でして。『これはすごい。ここまでやり切ることはできない』と驚いていました。(長与と飛鳥の)2人は『今までやってきた練習と違う』とブーブー言っていましたね。それでも親父たちは『スターになりたいなら文句言わずにやれ』と怒鳴っていました。あまりにしっかりやっていただいたので、クラッシュ・ギャルズに限らず、うちの選手全般を見てもらった方がいいのではと。毎日は無理だけど、定期的に見てもらおうと話していましたね」

 長与と飛鳥は必死に食らい付いていった。「クラッシュ・ギャルズ」は山崎が指導する空手を武器に、一気にスターの階段を駆け上っていく。

 合宿から12日後の8月27日、東京・後楽園ホール。

 飛鳥と長与は「クラッシュ・ギャルズ」を名乗り、正式にペアを組んだ。山崎は試合直前まで付きっきりでリング上で指導した。コスチュームとなる道着の胸元には山崎の当時の道場名「風林火山」が刻まれている。柔軟性や芸術性を売りにする女子プロレスにとって、革命的な試合スタイル。ロープに振っての正拳突き、ダブルの回し蹴りなど空手を前面に押し出した。ボブ矢沢はプロレスと空手を融合させたスタイルに驚いた。

「山崎先生は元々キックボクシングをやっていた。自分もリングに上がって、脚光を浴びた経験があるので、そこは空手だけをやってきたアマチュアとは違うところですよね。かなりそういう経験的なアドバイスはあったのかなと。助けられた部分は大きかったと思う。親父(松永健司)も『もう先生に任せればいい』と言っていましたから」

 18歳の長与と20歳の飛鳥が山崎色に染まっていった。

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