吉永小百合にしかできない「名演」だった
吉永小百合の会見での言葉は、特に過激な解禁論でもなければ、メディアへの激しい批判も含んでいない。だが一見穏当に見える「こういうことを乗り越えて、また撮影の現場に帰ってきて欲しい」というシンプルな言葉には、昨年の事件の後に交わされた様々な議論、白石監督たちが積み上げた社会の論点が見事に内包されている。
それは伊勢谷追放論者を無意味に挑発し分断を招くものではなく、社会が公約数として共有できるラインを計算した理性的な言葉だった。信頼して共演したのに裏切られた、主演映画に泥を塗られたと激怒してもむしろ当然の状況なのだが、逮捕から3日という混乱状況の中で、伝説的女優の語った言葉は驚くほど落ち着き、関係者と伊勢谷に細やかに配慮されたものだった。
虚構を演じるという意味ではなく、説得力を持って表現し、観るものに心を伝えるという演技において、吉永小百合は今も偉大なパフォーマーなのだなと思い知らされる会見だった。
シンプルに見えて考え抜かれた言葉の選択だけではない。伊勢谷友介との共演を思い返し語る声、表情や視線、それらはもちろん吉永小百合の率直な本心から出た表現なのだろうが、同時に社会の幅広い世代に訴え説得する表現になっていた。
それは戦後という動乱する時代の中で、左の急進主義にも右の国粋主義にも傾くことなく、反戦と反核を柱とする地道な戦後民主主義の道を歩き、『キューポラのある街』などヒューマニズムに立った名作で大衆と信頼関係を築いてきた役者、吉永小百合にしかできない「名演」だったと思う。
75歳の名女優による、静かな社会変革の瞬間であった
穏当であるからこそ、踏み出した一歩は大きく社会を動かす。会見の後、公開が10月に迫るワーナー配給の『とんかつDJア
11日の会見に同席した松坂桃李や広瀬すずに対して、伊勢谷友介に関する質問が向けられた形跡はない。吉永小百合ほどの超大物がここまで決定的なコメントを出した以上、若手俳優をつつき回す必要はないと判断されたのかもしれない。
今後公開される映画の中で若手俳優たちがマイクを向けられるにせよ、そこには吉永小百合という大女優が先んじて残したコメントが、足跡のように映画界のオピニオンとして残り、彼らを守るだろう。同時にそれは、私生活も含めた俳優としての復帰に向け伊勢谷友介
東映と吉永小百合があえて先頭に立ったオピニオン、許してはならない逸脱と許すべき人間の弱さの間に引かれた新しいガイドラインは、日本映画界の中で静かに共有されつつある。それは特に新しい思想でもなければ過激な運動でもない。だが日本映画の生きる伝説と言ってもいい75歳の名女優による、静かな社会変革の瞬間であったと思う。