馬琴の鋭い観察眼
また、「江戸は9月下旬より流行して10月が盛りであった。京・大坂・伊勢・長崎などは9月に盛んだった由。大坂と伊勢松坂の友人の消息文にそうあった」と、広範囲で流行したことが分かります。
旧暦とはいえ「9月、10月」は、「寒い盛り」ではありません。冬場にピークを迎える季節性のインフルエンザとは異なる感染症でしょう。今回の新型コロナのような季節性の弱い感染症で、「新型」だった可能性も捨てきれません。
馬琴の観察眼が光っているのは、大坂や伊勢松坂の友人の手紙から、「畿内や長崎などでは9月から流行していた」と読み取っている点です。外国との玄関口・長崎から江戸に1カ月かけて拡がったことが分かります。時期と地域のズレを特定し、どう伝播したかを突き止めようとするほど、江戸後期の文人の科学性は徹底していました。実はこの精神が、のちに西洋文明の脅威と接した幕末維新の日本が、一挙に近代へと転回できたことにつながるのです。
すでにあった給付金
さらに馬琴は、〈この折窮民御救いの御沙汰ありて〉と、当時すでに“定額給付金”があったことまで記録しています。
「籾蔵町会所へ、裏借屋(裏長屋)の町人を召し呼ばれ、一人につき御米5升、女は4升、3歳以上の童には3升ずつ、下されるとの聞こえがあった。文化のだんほう風の折には、銭で1人につき2百五十文ずつ下されたそうだが、この度は米で下される。借家であっても(表通りの)表店で渡世している者や召使いは男女ともに(給付対象から)除かれるという」
「文化(正しくは文政)のだんほう風」のときは金銭の給付でしたが、今回は、男は5升、女は4升、3歳以上の子供は3升の給付米を配っています。裏長屋の江戸っ子に、金銭で給付すると、すぐに酒にして飲んでしまうかもしれません。米で現物支給するようになっています。また一種の“所得制限”もありました。「借家でも(表通りの)表店」は、その日暮らしの裏長屋の庶民とは違うと考えられ、給付されませんでした。
ちなみにこの当時の「250文」は、「1万2500円」くらいで、少ない気もしますが、行商や露店商などで暮らしていた江戸庶民を救済するのが目的でしたから、この金額なのでしょう。麻疹の罹患期間を考えて、米5升など、半月たらずの当座の生活費用を渡しているように思われます。
いずれにしても、今日、「給付は必要か否か」という議論がなされていること自体、江戸時代よりも遅れているわけです。