大正時代には、当時10代の皇太子(のちの昭和天皇)や、弟の秩父宮、そして首相の原敬もスペイン風邪に罹患していた。『感染症の日本史』(著者:磯田道史、文春新書)より、今日のビジネスパーソンのような働きぶりの原敬の症例を補助線に、当時の政党政治を読み解く。(全2回の2回目。#1を読む)
新型ウイルスは後遺症が怖い
患者史の立場から注目しなくてはならないのは、スペイン風邪が「治った」後の原の病状です。日記(※注 原敬が書き残した『原敬日記』)にあるように、原はわずか2、3日で平熱に下がり、再び首相としての仕事をこなし始めます。恐るべき体力だと思いますが、第2波のなかでも早期罹患したことで、第3波のように強毒化してさらに致死率が高まったウイルスには感染しなくて済んだ可能性もあります。
ところが、ここから先はあまり論じられていないことですが、『原敬日記』を読むと、熱が下がってからも、原はずっと体の不調を訴え続けるのです。
たとえば11月9日、職務復帰から10日ほど経っても、〈過日来の風邪全快せざれば休暇を利用して腰越別荘に赴きたり〉とあります。さらに12月になっても〈4日 風邪引籠中なりしが、東京各組合団体の連合会より招待せられ、かねての約束につき、押して出席して一場の演説をなしたり〉、〈5日 風邪のため終日引籠療養せり〉といった記述が続きます。12月15日になっても〈風邪全快せず。かつ日曜日なるをもって腰越別荘に留る〉。とにかくずっと調子が悪いようです。
さらには年を越して、大正8(1919)年の3月から4月にかけても、長く風邪の症状に苦しめられます。
〈〔3月〕1日(略)午後4時55分発にて腰越別荘に赴く。風邪全く快方ならざるに因る〉
〈15日 午後5時50分発にて腰越別荘に赴く。風邪全快せず〉
〈22日(略)明日は日曜日にて而して風邪も全快せざるに因り、午前、腰越別荘に赴きたり。少々発熱し、ことに咽喉甚だ悪し〉
〈〔4月〕2日(略)午後4時発にて腰越別荘に往く。風邪全く恢復せざるに因り、明日の神武天皇祭に不参して、静養に赴きたるなり〉
こうしてみてみると、スペイン風邪のような感染症の場合、熱自体は数日や1週間ぐらいで下がったとしても、体へのダメージが相当に大きいケースがあるとわかります。つまり、後遺症です。原敬の場合も、体内で炎症が強く起きていたために、その後、数カ月にわたって、不調が続いていたと考えられます。これは、後に詳しくみていく秩父宮や永井荷風にもいえることですが、一度治っても、身体に後遺症が残り、ダメージを残していると思われるケースが少なくないのです。新型ウイルスにかかった場合、熱が下がったり、ウイルスが体内からいなくなっても、完全に「治った」とは言い切れません。後遺症が怖いのです。これもスペイン風邪の患者史から学びうる教訓のひとつだと思います。