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2020/09/30

source : 文春新書

genre : ライフ, 医療, ヘルス, 社会, 歴史

葉山御用邸での根回し

 山県危篤の報をうけ、原は大きな動きを起こしました。2月15日、原は大正天皇に拝謁しようと、葉山の御用邸に向かったのです。原は大正天皇に、議会の模様、予算が無難に通過したこと、パリにおける講和会議の状況などを説明します。そして、話は山県の病状に及びました。

〈山県、病気につき、その様子を言上し、山県死後は西園寺を後任に命ぜらるるのほか、今日の国家内外の実況にては他に途なし〉と〈繰り返し言上し〉たうえで、〈決して他より陳言あるも容易に御取上なきように申し上げおきたり〉とダメ押ししています。このあたりが、政党政治の立役者、原の根回しの見事さです。他より口を挟んでくる人物として、原が警戒しているのは、もちろん大隈重信です。

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 つまり、原の葉山訪問の真の目的は、山県の死という事態に備え、大正天皇に釘を刺すことだったといえます。政党内閣の総理である原は、万一の場合、非政友会の大隈の芽をつみ、政友会総裁も務めた西園寺を山県の後継者にすえようとしました。それは、原の政権維持のための不可欠な条件だったのです。このとき、西園寺が第1次世界大戦後の処理をめぐるパリ講和会議で、ヨーロッパに派遣されている最中だったことも、原たちの焦りにつながっていたでしょう。山県に何かあった場合、西園寺を呼び戻すまでの間に、大隈が策動する危険性があったわけです。

 こうして原は大正天皇との対面を終え、宮内大臣の詰所に下がってから、石原健三宮内次官に天皇の病状について聞き取りをおこないました。そこで次官は〈当地〔葉山〕へ御避寒後、いまだ御入浴もこれなく、御庭にもお出なきようの次第〉と語ります。〈別にこれという御病症にもあらざれども、何分少々御熱などのある事もあり〉、〈御脳の方に何か御病気あるにあらずや〉という次官の報告を聞いて、原は〈甚だ恐懼に堪えざる次第なり〉と記しています。大正天皇の病状を深く憂慮するとともに、風呂にも入れず庭の散歩もできない状態だった天皇に、自分たちの政権を守るために無理をさせ、わざわざ会ってもらって申し訳なかったということでしょう。