山県有朋がスペイン風邪に
しかし、例年ならば2月11日の紀元節、つまり神武天皇の即位を記念する日には、さまざまな儀式に出席するため、東京に帰っていなくてはなりません。ところが、〈紀元節なるも、御違和により葉山御用邸より還幸あらせられず〉(『大正天皇実録』)、健康の不調のために帰れませんでした。さらには、青山の憲法記念館(現・明治記念館)で行われた憲法発布30年の記念祝賀会も欠席することになります。
この日、原は紀元節で宮中の賢所に参拝したのですが、大正天皇は〈御風気にて還幸なし〉、風邪で葉山から帰れなかった、としています。そこで原が波多野敬直宮内大臣に病状を尋ねたところ、〈陛下御風気は至って御軽症なる趣〉との答えでした。
こうして天皇の病状が気遣われる中、この2月11日、もうひとつの重大情報が飛び込んできます。山県有朋がスペイン風邪にかかり、かなりの重体である──というのです。原が山県家に電話をすると、〈気管支炎にて肺も少々侵され、熱度9度以上にて降下の模様なしという。流行感冒らしければ、老体には危険なるべし〉とのことでした。このとき、山県は80歳。元老である山県がインフルエンザで、39度の熱が下がらないとなれば、政局をも左右する事態です。
実際、山県重体の報がもたらされた3日後の14日、『原敬日記』は、こんな動きを記しています。
〈田中陸相、山県の見舞に往き、尚、逗子に往き平田東助に内談し、山県の死後(もし死せずとも)は西園寺を押し立つるのほかなしとの趣旨を内談すべしといえり〉
この田中陸相とは、後に陸軍から政友会に転じ、首相となる田中義一です。田中は、小田原にいる山県を見舞った後、逗子に住んでいる山県の腹心の平田東助と話をしました。そして、自分が心配しているのは、山県が死んだら、大隈重信が宮中に取り入って実権を握ろうとすることだと述べ、西園寺公望を山県の後任として押し立てるために、平田を取り込むべきだと提案しています。さらに、平田はいろいろと策をこらすところがあるから、早く味方につけないと面倒なことになりかねない、と生々しい政治的やりとりを交わしています。
ちなみに、『大正天皇実録』も、この山県の病には触れています。2月12日、〈元帥公爵山県有朋、小田原別邸において病めるをもって、東京帝国大学医学部教授入沢達吉を遣わし、その病状を問わしめ〉ています。入沢は東京帝大の医学部長も務め、後には大正天皇の治療に当たりました。また14日には、西園寺公望の兄で、内大臣、侍従長などを歴任した徳大寺実則のもとにも侍医を派遣しています。徳大寺もスペイン風邪に罹患していたようで、この年の6月に亡くなりました。『大正天皇実録』には山県、徳大寺とも病名などは記されていません。