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山縣有朋もスペイン風邪に…大正期の政党政治に激震が走った「サミット・クラスター」

『感染症の日本史』より#2

2020/09/30

source : 文春新書

genre : ライフ, 医療, ヘルス, 社会, 歴史

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大正天皇と山県有朋の病状

 では、このように厳格な「接近禁止」で守られていた大正天皇は、スペイン風邪を免れられたのでしょうか。後に詳しく述べますが、皇太子(後の昭和天皇)も秩父宮雍仁親王や三笠宮崇仁親王もインフルエンザにかかった記録が残されています。しかし、大正天皇については、『大正天皇実録』にも「流行性感冒」といったはっきりとした罹患の記述は見あたりません。

 たとえば大正7(1918)年10月31日の『大正天皇実録』には、〈不予により天長節祝日の観兵式行幸並びに拝賀式を止めらる〉とあります。「不予」は天皇の体調不良を指します。翌11月1日は枢密院の会議があったのですが、『原敬日記』によると、原は相変わらず病後1週間が経っていないので出席を遠慮していると、〈出御なきにより、出席然るべし〉、天皇が出席しないので、原は出席しても構わないと枢密院にいわれています。『大正天皇実録』には、この日の天皇の動向は記されず、翌2日には、主要な皇族を集めた会議に出席したことが記されています。

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『原敬日記』をみていくと、この時期、天皇が風邪を引いたという記述は登場します。大正7年12月2十六日、〈陛下御風気にて出御なく拝謁せず〉。翌27日の帝国議会の開院式にも〈陛下御風邪にて臨御なきにより、余、勅命を奉じて勅語を捧読したり〉、天皇が出席しなかったので、原首相がおことばを代読しています。

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 これを『大正天皇実録』に照らしていくと、26日は記述なし、27日は〈御違和により帝国議会開院式行幸を止め、内閣総理大臣原敬をして勅語を捧読せしむ〉とあります。この体調不良は年が明けても続き、大正8(1919)年1月1日〈御違和により四方拝に出御あらせられず〉、歳旦祭も3日の元始祭も侍従、掌典長が代拝しています。しかし、これらが流行感冒だったどうかは、よくわかりません。

『原敬日記』で、大正天皇の体調不良が深刻なものだとはっきりと見て取れるのは、大正8年の1月末から避寒のため、葉山の御用邸に滞在中のことです。

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 この年、1月28日に、天皇・皇后は新年の公式行事を一通り終え、東京から葉山に向かいます。例年通り、寒さを避けるためでしょうが、この年は、大流行しているスペイン風邪を避けるという意味合いもあったかもしれません。『実録』の記述によると、午前9時25分に皇居の門を出て、東京停車場からお召列車に乗り、逗子で降りて、11時30分には葉山の御用邸に到着しています。大正8年の段階で、皇居から葉山までドア・トゥ・ドアで約2時間で着いていることがわかります。おそらく当時における最速の移動だったでしょう。