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山縣有朋もスペイン風邪に…大正期の政党政治に激震が走った「サミット・クラスター」

『感染症の日本史』より#2

2020/09/30

source : 文春新書

genre : ライフ, 医療, ヘルス, 社会, 歴史

note

天皇の御前に出られない

 もうひとつ、原敬の罹患からみえてくるのは天皇との関係です。

 話を、原の熱も下がり、東京に戻った大正7(1918)年の10月末に戻しましょう。

 東京に戻った翌日の10月30日、業務に支障をきたす事態が起こりました。

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〈米籾輸入税中止緊急勅令その他の件につき、枢密院の会議ありしも、余、流行感冒後1週間を経ざるにつき、御前に出ずる事を遠慮して出席せず〉

 インフルエンザ罹患後、1週間経っていないという理由で、天皇の出席する会議に出られなかったのです。

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 第3章でも紹介したように、江戸時代には、感染症にかかったことがわかると、将軍や殿様にうつさないよう、登城を禁じられるという決まりがありました。それが、この時代にも生きていました。江戸時代にも、家臣が殿様や将軍の前に出るのを自粛することを「遠慮」といいましたが、『原敬日記』でもこの言葉が使われています。

 このスペイン風邪の際には、治癒後1週間というのが、〈御前に出ずる〉、つまり大正天皇の臨席する場に出る場合の基準だったことがわかります。

 ちなみに、ここで天皇が登場する背景には、当時の有名な事件がありました。米騒動です。

 この大正7年の7月から9月には、米の値段が暴騰し、各地で米問屋や地主、商社などが襲われる米騒動が起こりました。8月には、外米の輸入を行っていた神戸の商社、鈴木商店に対する焼き討ち事件が発生して、そのために全国中等学校優勝野球大会、いまでいう「夏の甲子園」が中止に追い込まれています。

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 こうした米問題に対応するため、原の新内閣は、外国から米籾を輸入して、米価を抑えようとします。それには関税の特例措置が必要ですが、議会を開いてあれこれ法律を改正していたらとても間に合わないというので、緊急勅令でやろうとしたのです。

 勅令を出すには、枢密院での会議を経ないといけません。枢密院は、天皇の御前で開くことが規定されています。しかし、首相である原はインフルエンザのために出席を控えなくてはなりませんでした。