歴史学者としての反省でもありますが、とくに感染症については単なる「病気史」や「医療史」ではなく、経済や社会状況まで含んだ総合的な「医療生活史」の視点が大事です。パンデミックの影響は、今も昔も、暮らしのあらゆる面に及び、似た現象が繰り返されるからです。
感染症の大流行は、経済活動にどんな影響を与え、時の政権はどんな対策をしたか。差別は起きたか。そういった点の歴史研究が、いまこそ必要だと痛感しています。
薬をただで配った大坂の商人たち
実は江戸時代には、給付金だけではなく、“医療支援”も行われていました。
時は幕末、安政6(1859)年にコレラが大流行し、江戸だけで10万人以上の死者が出ましたが、大坂の史料『近来年代記』(『大阪市史史料 第二輯』所収)に〈世上ころり病大流行の事〉と題して、次のような記述があります。この病気は〈何病となく夏の暑あたりごとくなり〉、症状は「足先よりひえ、胸が詰まり、そのまま臥して死んでしまう」。
そして〈道修町より施行薬出る事〉として、
〈8月23・4日・5日と3日間、薬屋中よりほどこし有〉
道修町は、江戸時代から薬種問屋が軒を連ねる「薬の町」で、今でも武田薬品工業や塩野義製薬などが本社を構えています。そこで3日間、薬屋さんたちが協力して、人々に薬を配ったというのです。大坂の商人たちの底力を感じさせるエピソードですが、その薬の名が「虎頭殺鬼雄黄円」という、なにやら物騒な感じのしろものでした。事実、「雄黄」とは今でいうヒ素の硫化鉱物のことですから、本当に危険な薬だった可能性もあります。しかも、『近来年代記』にも〈いかなる薬飲めども一向しるしなく〉とあるように、薬としての効果はなかったようです。
さらに『近来年代記』を読み進めると、〈御上様より法香散という薬出る〉とあります。大坂の東町奉行が薬を施したというものですが、法香散(芳香散)というのは、実はクスノキ科の若枝とショウガの根などです。当然、コレラにはまったく効きません。大坂の奉行は、お上と民衆の目があるので、何かしようと、慈悲・仁政のつもりで、効かぬ「ショウガ薬」を急いで配り、「実績」にしたのです。さらに幕府は芥子泥という、からし粉と、うどん粉の貼り薬もすすめました。