『天安門広場 中国国民広場の空間史』(市川紘司 著)筑摩書房

 A5判で500頁に迫る大著だ。中国本土を含め、天安門広場に関するこれほど本格的な研究書が出たのは初めてだろう。

 一国の首都にはたいてい大きな広場がある。東京にも皇居前広場がある。しかし天安門広場ほど王朝時代からの長い歴史をもち、さまざまな政治空間として利用され、現代の国家観にまで影響を与えてきた広場はないように思える。

 その歴史は、1949年10月の新中国(中華人民共和国)の成立を境に大きく2つに分かれるとされてきた。それを一言で言えば、禁域としての宮廷広場から人々に開かれた人民広場への転換である。

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 確かに、新中国の成立後に天安門広場の姿は大きく変わった。王朝時代からずっと南北に長いT字のような形状をしていたのが、世界最大ともいわれる矩形となったからだ。それは広場が、「革命」によって生まれた国家の正統性を誇示する政治空間へと改造されたことを意味した。

 しかし著者は、「正史」と呼ぶべきこの史観に異を唱える。清朝滅亡後の中華民国の時代や日本が北京を占領していた時代の広場に、新中国成立後につながるさまざまな動きがすでに見られたことを、多くの史料から解明した意義はきわめて大きい。

 49年10月には天安門に登り、群衆を見下ろしていた毛沢東が、文革期には天安門上で若い紅衛兵に接見したり、自ら広場に座って人々と語り合ったりしたというのも興味深い。昭和初期には天皇もしばしば皇居前に姿を見せたが、二重橋に白馬に乗って現れることもあれば、広場で小さな台座に乗り、人々のすぐ目の前で生身の身体をさらすこともあったからだ。

 だが皇城に含まれていた天安門が広場と一体のものに変わり、新たに人民英雄紀念碑や毛主席紀念堂のような恒久的な建造物が築かれた天安門広場とは違って、皇居前広場には政治空間としての明確な設計図がなかった。二重橋も濠にかかる橋にすぎず、昭和天皇は既存のこの橋を利用しただけだった。紀元2600年式典などで仮宮殿が広場に造営されることはあっても、式典が終われば解体された。パレードを開催した連合国軍が広場に設置した観閲台も、占領が終われば撤去された。天安門広場に見られる威風堂々の構築物が建てられることはついになかったのだ。

 皇居前広場の歴史は、もう完全に忘却されている。本書のように史観を批判しようとしても、史観自体がないのだ。そもそも都心に広場があるという事実が認識されていない。

 本書からは、広場を通して中国と日本の近現代史の違いばかりか、政治体制や政治思想の違いまでもが浮き彫りになる。建築史のすぐれた成果でありながら、政治家や思想家の言説にしか歴史を見ようとしない人文社会系の学問に鋭く再考を促している。

いちかわこうじ/1985年、東京都生まれ。東北大学大学院工学研究科助教。専攻はアジア建築都市史。中国政府奨学金留学生として清華大学に留学経験もある。2019年、日本建築学会奨励賞。共著に『世界の建築家解剖図鑑』などがある。
 

はらたけし/1962年、東京都生まれ。政治学者、鉄学者。放送大学教授。『地形の思想史』『皇后考』『皇居前広場』など、著書多数。