恋愛小説の名手・村山由佳さんの最新作『風よ あらしよ』は恋愛と社会運動に殉じた女性の一代記だ。
「栗原康さんがお出しになった伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』を読んだ編集者に『村山さんに野枝を書いてほしい。共通点が多いのでは』とリクエストされたのがきっかけでした。求められると燃える質(たち)なんです(笑)。
瀬戸内寂聴さんの小説『美は乱調にあり』を初めて読んだのは確か10代の終わり。その頃は野枝と響き合うものがまだ無くて、他人事のように読んだのでしょう。読んだことすら忘れていました。読み返したら野枝が感じた痛みや心の揺れがよく分かり、どの感情も嘘なく書ける気がしました。とはいえ野枝は一筋縄ではいかない爆弾のような女性ですし、実在の人物を材に取るのは初の試みなので相当思い切りが要りましたが、いざ書き始めると、『寂聴さんの後に野枝を書けるのは、私だけではないか』とさえ思えるような熱が込み上げてきましたね」
物語は大正12(1923)年、関東大震災後の混乱の最中に起きた「甘粕事件」から始まる。政府転覆を企んだとして野枝と内縁の夫・大杉栄は憲兵隊に虐殺される。
「私は画(え)が見えて初めて小説を書けるのですが、なかなか明治・大正時代の風景が立ち上がらずに途方に暮れた時期もありました。ところが野枝と大杉が八百屋で捕縛され、連れていた甥っ子がりんごを持っていたという証言に触れた時、赤いりんごから全てに色付いてゆくような光景が私の中に生まれました。ここから語り始めれば大丈夫と思えた瞬間でした」
28年の生涯で、野枝は女性解放活動家として「青鞜」最後の編集長を務め、私生活では2度の結婚と離婚を経験。やがて大杉と恋に落ちるが、大杉には妻・保子と愛人の神近市子がいた。そして嫉妬に駆られた神近が大杉を刺す「日蔭茶屋事件」を起こす。その後、野枝と大杉は同志として互いをさらに強く求めあうようになる。
「小説の中では大杉を『眼の男』と表現しましたが、どの写真を見ても眼光が尋常ではありません。ただ一人、野枝と渡り合える体力と精神力の持ち主だったのだと思います。2人が取り交わした書簡は、いい加減にしろと窘(たしな)めたくなるほどベタ甘で、『病気のからだをいじめて済まなかったね』などと臆面もなく書いています。私も“言葉人間”なので、手紙やメールでの煽り合いで盛り上がるのはよく分かるし、身に覚えがあります(笑)。貰った言葉に書いた本人以上の幻想を抱き、その幻想に恋をする。そこも含めて野枝に共感しました」
村山さんは「野枝が生きた時代と今は近いのではないか」と警鐘を鳴らす。
「野枝が受けたような露骨な言論弾圧や思想弾圧はないけれど、より巧妙な形で排斥され、届くはずの声が届かないことが今も沢山あるはずです。私自身、SNSでちょっと反体制的な発言をしただけで叩かれますから。私の父はシベリア帰りで、実家では『赤旗』を購読していました。ある日、新聞紙で花を包んで学校に持っていったら母が狼狽(うろた)えたことがありました。保守的な学校で我が家が白い目で見られることを心配したのでしょう。でも、父から受け継いだ戦争の記憶や物事の考え方が子供の頃から私の中で育まれた結果、私は野枝の人生に強く惹かれたのだと思います。父は数年前に他界しましたが、『風よ あらしよ』はこれまで書いた小説の中で一番読んで貰いたかった作品です」
むらやまゆか/1964年、東京都生まれ。93年『天使の卵―エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞を受賞。続編の『ミルク・アンド・ハニー』など著書多数。