30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏は、あるとき原発と暴力団には接点があることを知る。そして2011年3月11日、東日本大震災が起こった――。鈴木氏が福島第一原発(1F)に潜入したレポート、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』(文春文庫)より、一部を転載する。(全2回の1回目/前編に続く)

◆◆◆

20人の決死隊

 話を佐藤のケースに戻す。

ADVERTISEMENT

 冷却システムがダウンし1Fが危機的状況に陥ると、佐藤の携帯に東京電力関係者から「緊急対応の作業があっから行けるかな?」と、直接電話がかかってきた。

 前述した通り、彼の会社のボスは「死んでもいい人間を用意してくれ」という要請を受け、社員の派遣をためらっていた。

「うちらが行きますよ。誰も行かないのはまずいでしょ」

 ここでの撤退は後々の営業戦略に大きな影響を与えるだろう、と佐藤は踏んでいた。土壇場のピンチで逃げ出さずに踏ん張れば、東電は作業員を派遣してくれた会社に恩義を感じるはずだ。他の会社を含め、佐藤の現場から合計20人あまりが1Fに向かうことになった。マイクロバスがJヴィレッジに到着したのは午前2時だった。

※写真はイメージ ©️iStock.com

 電気が不通のため、あたり一面は真っ暗で、建物も静まりかえっている。

「様子……真っ暗でなにも見えないっすもん。ちょっと離れた場所にもう一台バスが駐まってて、東芝の放管の人らがいて、そこでクイクセル(バッジ)の配布とか、そういうのやってるだけです。東電の社員の人たち……見てないっすね。あとは放水車が駐まってて。ほんと暗くって周りの状況が分かんなかった。バスの車内の照明だけを頼りにタイベック着て、全面マスク付けて、朝5時までJヴィレッジでマイクロバスの中にいましたね。1Fには6時くらいに着きました。どう思ったか? ああ、もう1Fは終わりだなぁって。あれ見たら誰だってそう思います」

 免震重要棟は、原子炉建屋のある海側のガラスがほとんど爆風によって吹き飛ばされており、瓦礫や割れた窓ガラスの破片が一面に散乱していた。作業を決める詳細なミーティングは、東電関連会社、メーカーごと、それぞれ担当する作業に分かれて行われた。水素爆発を起こした1号機や3号機は、散水によって冷却するしか方法がない。が、配管が生きていれば、そこからパイプを分岐させ、海水を汲み上げるポンプに接合すればいい。