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「やっぱり殺られてしもうたか…」 神戸山口組幹部・死へのカウントダウン

『山口組ぶっちゃけ話 私が出会った侠客たち』より #1 

2020/10/27

「俺はひとりになっても古川組2代目としてやっていくよ」

 一方の恵一にしても、移籍後は苦境が続いていた。山口組分裂から1年半あまりが過ぎた2017年4月、今度は「神戸山口組」が割れ、織田絆誠らが「任侠山口組」を結成(「絆會」への改名を経て現在に至る)。これに2代目古川組若頭の山崎博司が追随し、組員全員を引き連れて「任侠山口組」に移籍してしまったのである。

 一時的に「一人親方」となってしまった古川恵一だったが、この移籍劇には誤解があったとして、琉真会など中核数団体がすぐに2代目古川組に復帰している。しかし、古川組が分裂したことには変わりなく、移籍した山崎が「古川組3代目」の襲名を宣言すると、「代を譲った覚えはない」と即座に2代目側が打ち消すなど、その後もドタバタが続いた。

 それでも恵一はやくざとしての矜持は失っていなかったようで、当時の心境を報道陣のインタビューに対して語った様子が『週刊実話』(2017年6月8日号)などで報じられている。

「俺はひとりになっても古川組2代目としてやっていくよ」

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 私はそれを一読して恵一の心意気に感動し、すぐに激励のメールを送った。すると次のような返信が届いた。

ご無沙汰しております。

本当にこの度の事は

私の責任です。

死んだ先代にも申し訳なく何が何でも

今しばらくだけ男の意地を通して

行きます。

 力強い言葉であった。「男の意地を通す」とは「やくざを続ける」という意味である。自分の代で古川組を終わらせてしまうことになっては父である先代にも顔向けができない。そんな思いを支えにしてみずからを鼓舞していたのだと思う。

 だが、これが恵一と交わした最後の言葉になってしまった。