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古川恵一と私

 少し恵一の経歴について書いておこう。

 恵一との縁は私が古川組に移籍した1997年からである。古川組初代・古川雅章の舎弟である私を、本来なら「叔父貴(おじき)」と呼ぶところを、恵一は「兄貴」と呼んで慕ってくれた。人懐っこい、愛想のいい男であった。そのころすでに若頭補佐についていたが、私から見ればまだまだ若手のひとりにすぎなかった。

 やくざの役職はその組によって重みが違う。山口組のような大きな組織では若頭補佐の力も大きくなるが、古川組のような中堅組織では経験と実績を積んでいる舎弟のほうが力が強いのだ。一般に「若頭」「舎弟頭」「本部長」がやくざの三役、これに「副組長」「事務局長」を加えたのが五役といわれている。

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 少年時代は暴走族のリーダーとして鳴らし、当時の仲間たちが恵一とともに古川組に加入している。とはいえ、すぐには渡世に入らず、しばらくは家具販売業やアパレル関係の職を転々としていた。

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 というのも、父である古川初代は息子をやくざにはしたくなかったようである。古川初代は1984年に長期の懲役に行っているが、収監が決まると、当時、組の相談役をしていた許永中に手紙を送り、「専務の不動産会社で一から勉強させてほしい」と恵一を預けている。「専務」とは古川初代が許永中を呼ぶときの愛称である。

 この関係は恵一がやくざになってからも続き、後年、古川初代と許永中が仲違いする一因にもなるのだが、それについてはあらためて後述する。

「父ならどうするか」「どう判断するか」をつねに考えて

 恵一が渡世入りしたのは25歳のときである。だが、やくざとしてはお世辞にも優秀とはいえなかったようだ。暴走族上がりで渡世入りも遅く、また何をしても父と比べられるという2世ならではの葛藤もあっただろう。学ばなければならないことが山のようにあった。

 いま振り返ってみると、恵一は渡世でも父・古川初代の存在を強く意識していたように思う。「父ならどうするか」「どう判断するか」をつねに考えて行動していた。これが古川組の分裂という苦境に立たされても「男の意地」を通す道を選んだ理由なのだと思う。

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 恵一で思い出すのは2000年2月に東京で起きた古川組元組員・山下功の射殺事件である。山下は古川組の一員として東京で活躍していたが、非常に素行が悪く、地元の組織からも「放り出せ」と声が上がるほどで、古川組を絶縁されていた。

 しかし、その後も態度は改まらず、古川初代と縁のある開業医を恐喝するなどカタギにも迷惑をかけ続けていたため、そのケジメをつけたかたちだった。

 この件で古川組本部長・小山元啓と古川組若頭補佐・高橋剛が逮捕され、高橋は懲役16年、小山は容疑否認のまま共謀共同正犯で無期懲役が確定している。