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結婚制度が緩やかだった分、女性も一人前の存在として扱われた

 それもそのはずで、古代における結婚は、非常に適当だった。いわゆる「妻問(つまどい)婚」が有名だ。男女が相手に求婚を呼びかけ、相手が合意すれば2人はすぐに性的関係を結ぶ。これで結婚の成立である(注9)。結婚後もしばらくは男女が別々に住むことが一般的だったし、離婚も簡単だった(注10)。ただし男女の同居を示す史料も多く、結果的に同居へ移行したカップルも少なくなかったのだろう。

 また古代の戸籍では夫婦別姓が基本だった。父方の氏姓が子どもに継承されるが、妻は自らの出身集団の氏姓を維持し続けた(注11)。夫婦が作る「家族」よりも、血縁集団という「生まれ」のほうが重視される時代だったのだ。

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 本当に「妻問婚」が一般的だったのかには疑問があるが、今よりも結婚制度が緩やかだったのは事実だろう。その分、法律的に女性も一人前の存在として扱われた(注12)。

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 女性にも所有権や相続権が確保されており、荘園を管理するために女性が現地へ出向いた証拠も残されている。ちなみに中世の荘園開発でも「女院(にょいん)」と呼ばれる女性皇族の果たした役割は大きい。

 同時代の中国よりも女性の権利は強かった。女性にも国家から田んぼが支給される代わりに、きちんと納税の義務を負ったり、宮廷内の雑用に駆り出されたりしていた。

 また当時の系譜を見ても、同父同母の子どもが一グループとされ、男女の区別なく生まれた順番で実名が記されている(注13)。「正妻(せいさい)」や「妻妾(さいしょう)」といった区別はなかったのだ。

 一般の庶民に関しては、資料がとぼしいため、実態はほとんどわかっていない。貴族でさえ「妻問婚」だったならば、庶民の結婚はよりフレキシブルだったのだろう。