日本にも存在した一夫多妻制の真実
数百年をかけて、列島は「双系制」から「父系制」に変化し、同時に女性の権利が徐々に制限されるようになっていった。
平安時代の貴族は一夫多妻制だったことが知られる。10世紀初頭までは複数の妻の間にさしたる上下関係はなかったが、次第に「本妻」が特別扱いされるようになっていく。
この一夫多妻制には全ての女性が納得していたわけではなかった。10世紀にある貴族の妻が書いた日記は、プレイボーイの夫が次々に妻妾を作ることに嫉妬や憎悪を隠さない(注14)。特に、夫と妻妾の間にできた子どもが亡くなった時なんて大喜びしている。ただし、この日記を大っぴらにできていたと考えると、女性差別はそれほど深刻でもなかったとも言える。
ところで、一夫多妻制といいながら、平安貴族が同時期に複数の妻を持っていた事例は、決して多くないという。妻の死亡や離婚で複数の結婚を繰り返すことは多く、多い場合でも妻の数はせいぜい3人程度らしい。
当時は若くして命を落とす女性が多かった。原因は懐妊や出産である。医療技術が未発達の平安時代に、出産は命を賭けた一大事だった。ある分析によれば、貴族男性の死亡のピークが50代であったのに対して、女性の死亡ピークは20代だった(注15)。それだけ出産で命を落とした女性が多かったということだ。平安時代の男性貴族が結婚を繰り返したのは、このような事情もあったのである(注16)。
「父系制」を決定的にしたのは、「家」の成立だ。「家」とは、今でいう家族経営の零細企業のようなもの。貴族たちの「家」は「医療」や「天文学」のように、天皇から命令された仕事を請け負う。その後に成立した一般庶民の「家」は、主に農業を生業(なりわい)とする。
この「家」は、男系で継承され、代表を務められるのは基本的には男性だけだった。中世以降、この「家」制度が列島のあらゆる階層に広がっていく。