秋が深まり夜も更けてくると、グラスに琥珀色した“aqua vitae (アクア・ヴィテ)=命の水”を満たしたくなってくる。
うまいウイスキーをちびりちびりとやれば、世事の憂さや悩みがゆっくり靄につつまれていく――。
世界を席巻する「イチローズモルト」
このところ、洋酒ブームが続いている。
「とりあえずビール」の声を押しのけ、ハイボールが取って代わる勢い。さらには、日本のウイスキーが世界的な人気と評価を得ている。そんな中、ジャパニーズ・ウイスキーの旗手として注目されているのが、肥土伊知郎と彼が創設したベンチャーウイスキー社だ。
肥土の名を冠した「イチローズモルト」は国際的なコンテストで数々の賞を受けている。プレミアぶりも、なまなかではない。ごく初期のモルト54種を揃え、世界に完品は4セットしか残存していないといわれる「カードシリーズ」が、オークションで1億円近い値段で落札されたほど。
昨年は肥土が、洋酒界で最高峰の栄誉といわれるISC(インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)の「マスター・ブレンダー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。ウイスキーの味わいを決定するキーマンとして、押しも押されもせぬ存在になったわけだ。
失意のどん底からスタートした
とはいえ――元メジャーリーガーのイチローならぬ、肥土伊知郎と「イチローズモルト」の名をご存じの方は、やはり熱心なウイスキーファンということになろう。せっかくの機会なので、「清楚で繊細、ほんのり甘くて上品。複雑かつ奥深い味わい」と世評高い銘酒、そのブレンダーを紹介させていただきたい。
肥土は1965年に埼玉県秩父で生まれ、今年55歳になった。生家は1625(寛永2)年創業の酒蔵で、1946年にウイスキー製造免許を取得している。
肥土は大学卒業後、サントリー勤務を経て94年に実家へ戻った。だが、折しも洋酒は未曽有の不振にあえいでいた。大手メーカーですら蒸溜中止を検討するほどの惨状だった。
父に代わり社長に就任したものの、苦境を脱しきれない。2000年には39億円もの負債を抱え民事再生手続きの憂き目に。ほどなく会社は人手に渡ってしまう。しかも、400樽あったウイスキー原酒が不良在庫と決めつけられ、廃棄を命じられた。中には20年近く熟成されたモルトもあったのに……。
しかし、肥土は失意のどん底から躍進をスタートさせた。