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「赤ちゃんポスト」が続いてきた理由

 13年の間には、3歳の子どもが預け入れられ、亡くなった赤ちゃんが置き去りにされるなど、想像を超える出来事が次々に起きた。現在も行政との距離は埋まらないままだ。

 それでも続いてきた理由を、健氏は父の奮闘によるものだったという。

「損得勘定ではなく、弱い者のためにあるというキリスト教の教えに導かれ続けた人生だったのだろうと思います」

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記者会見で蓮田太二氏の最期の様子を話す慈恵病院副院長の蓮田健氏

 生前のインタビューで蓮田氏は「ゆりかご」を開設したことと信仰は関係ないと語ったが、息子の目には、ゆりかごに絶対的な自信を持ち続けた父の姿は、キリスト教の教えと重なる。

 太二氏の父は国文学者の蓮田善明で実家は浄土真宗の寺。母方は代々医者の家系だ。保守色の強い家庭環境で育った太二氏が30代の終わりに赴任した慈恵病院はカトリック修道会が母体だった。病院で立ち働くシスターたちの献身ぶりと「圧倒的な前向きさ」は常にそばにあった。3万5千を超えるお産や手術で神の采配としか思えない奇跡のようなことで母子が救われる経験をし、62歳でカトリックの洗礼を受けた。

「ゆりかご」を始めたときは71歳だった。

慈恵病院の前身をつくったマリアの修道者聖フランシスコ修道女会は病院の裏手に

 糖尿病のため10年ほど前に片足を切断。もう一方の足を切除する2年前まで、毎日曜日、車椅子で教会に通った。車椅子の生活をしながら「こうのとりのゆりかご」の活動に取り組んだ。晩年は敗血症で体調を崩し、慈恵病院で闘病生活を送った。

「もう、お小言が聞けなくなるんですよね」

 心筋梗塞により済生会熊本病院に入院したのは10月23日の朝。直前までいつも通りに病院の朝食をとった。調理について意見しようと管理栄養士を呼ぶよう秘書に指示をした。それほどにいつもと変わらない様子だったという。

「あのとき、なんておっしゃりたかったのか、聞き損ねてしまいました」 

 そう話すのは、呼び出しを受けた管理栄養士の上田留美さん(49)だ。

「魚の焼き方が硬い、とか、もっと冷めないようにできないのかね、とか、理事長先生からしょっちゅう電話がかかってきていました。もう、お小言が聞けなくなるんですよね」