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体中に花札の刺青が…

 笹井栄次郎は、京都・千本三条に明治時代から「人夫口入れ業」を営む「千本組」の笹井三左衛門が妻以外の女性に産ませた次男。柏木隆法「千本組始末記」によれば、千本組は季節労働者や日雇い労働者らを束ねる「かたぎやくざ」だった。

 当時芸能のメッカで“時代劇映画のハリウッド”だった京都では、演劇界、映画界・撮影所にやくざはつきもの。関係は深く、芝居小屋や撮影所の用心棒からスターの護衛まで請け負っていたとされる。鈴木晰也「ラッパと呼ばれた男」は「笹井栄次郎は笹井の三兄弟の中で最もアクの強い、ヤクザらしい性格」「栄次郎と縁あって親子の盃を交わしたのが増田三郎、法の外の男である」と書いている。

 また、「千本組始末記」は「顔斬り」の著者で作家の青山光二が増田と会った話を紹介している。

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「一緒に風呂に入ったところ、背中に見事な彫り物がありました。五輪塔の図柄に勘亭流の筆体で此男一代御意見無用と書かれ、体中に花札が一枚一枚彫られていまして、ばくち打ちにとっては縁起の悪いとされている坊主札は足の裏にありました。この男が長谷川一夫の顔を切った犯人の一人であったことを聞いたのは、それから後のことです」

なぜ永田は起訴されなかったのか

1957年には菊池寛賞を受賞した長谷川一夫(林長二郎) ©️文藝春秋

 事件はこれで解決したと思われた。ところが――。

 11月30日京都日出朝刊に「永田新興撮影所長 歸(帰)宅を許さる 取調一段落を告げて」という記事が載った。「29日午前1時ごろに至り、一応の取り調べを了し」「ひとまず帰宅を許され、30日から平常通り、撮影所で事務を執ることになったが、いつもの通りの明朗性を失わず、至って元気である」と記事にはある。

 結局、金、増田、笹井は起訴されたが、永田は起訴されずに終わった。なぜだったのか。

「千本組始末記」には事件までのいきさつが書かれている。

 秋のある日、永田は白井・松竹副社長・京都撮影所長に呼ばれて祇園の愛人宅へ。用件は長二郎の引き留め工作だった。事件の捜査で「警察も時間をかけた追及をしたようだが、永田は頑として否定し続け、業を煮やした警察が『何か』の証拠を探してきて永田に突きつけ白状させたといわれるが、その証拠については裁判の席では明らかにされず」「林長二郎の顔を切ったとされる剃刀はついに発見されず、物的証拠は何もないままに自白だけが証拠として取り上げられ、わずか3回の公判だけで4回目に判決が出るなど、いくら非常時でも考えられないような裁判で一件落着している」(同書)。

 当時のうわさでは、白井が永田に1000円で依頼。永田が千本組にやらせたという。白井も調べに現金を渡したことは認めたが、あくまで長二郎を引き戻すための軍資金だと主張した。永田は当時から政財界、官界にさまざまな工作をしていたとされる。それがこうした結果につながった可能性はあるだろう。