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「黒幕」との「因縁的としか言えない交友」

 長二郎は本名に戻して再起を果たす。その後も時代劇を中心に、映画、舞台、そして宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」の演出などでも活躍。

戦後の永田雅一(「映画通まっしぐら」より)

 永田は戦後、大映の社長となり、チョビひげをトレードマークに「永田ラッパ」「ワンマン」の異名をとったほか、プロ野球球団経営、競馬の馬主、そして岸信介・元首相の後援者として多くの話題を集める。

 そして1950年、長谷川一夫は大映に入社。トップスターとして活躍する傍ら、取締役になる。戦中から主宰していた劇団の負債を肩代わりしてもらうのと引き換えだったとされる。

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 長男・林成年の「父・長谷川一夫の大いなる遺産」には「顔切り事件」に触れた際、印象深い記述がある。

「この事件の黒幕だった某氏と父は、あるときあることがきっかけで再会する。父はそのとき、この男が自分の顔を切らせたのだと分かっていた。もちろん、その某氏も黒幕が自分だと、父も分かっていることを知っていた。だが、父は事件に関しては、ただの一度も釈明を求めることはしなかったし、彼とて弁解をしなかった。こうして父と某氏の間に愛憎、利不利、疑惑と信頼、瞋恚(しんい=怒り)と寛恕、そのほか、人生もろもろの感情、あるいは打算の一切を越えた、まさに因縁的としか言いようのない交友が最後の最後に至るまで続けられたのである」。

 この後の項では「永田雅一さんとの宿縁」と実名を出しているのが不思議だ。

 1938年2月の京都地裁判決では栄次郎に懲役1年、増田、金に2年が言い渡され、金はそのまま刑に服した。同年4月の控訴審では栄次郎は量刑変わらず。増田は裁判長から「何か言いたいことはないか」と聞かれ、上半身裸になって背中の刺青を見せ「わいの言いたいのはこれだけです」と発言。懲役1年を加えられて服役した。栄次郎は上告したが、棄却されて刑が確定。

 その後について「千本組始末記」は「栄次郎は生涯、永田に付きまとった」と記す。宣伝費の名目で大映から月々金を引き出したほか、大阪の梅田大映の地下に10年近くも家賃を払わないままトンカツ屋を出していたという。

「ラッパと呼ばれた男」によれば、1966年3月に死亡した。金も出所後、永田に金をせびり、暴力団に加わっていたが、事件を起こして韓国に強制送還され、1957年に死亡。増田については「やくざなりに、一本筋が通っていた」(「千本組始末記」)。永田の厄介になることもしなかった。「顔切り」の異名は全国に知れ渡り、生涯をばくち打ちで通した。死亡したのは1958年だったと「ラッパと呼ばれた男」は記している。