いまでは考えられないことだが、第1志望は東京大、スベリ止めに京都大という大学選びができた年があった。1987、88年、国立大学の試験日がA日程=2月下旬、B日程=3月上旬に分けられる方式がとられ、東京大がB、京都大がAの日程で試験を行なったのである。AB両日程の入学手続きが同日なので、京都大に合格し入学する権利を持ちながら、東京大の合格日まで待つことができる、という方式だ。
これによって、1987年、東京大、京都大の両方に合格した受験生が約1800人おり、このうち8割以上の1500人は東京大に進んだと、予備校関係者は分析していた。いちばん悲惨だったのが、京都大理学部である。同学部の合格者465人のうち、東京大(理一、理二、理三)合格者が381人もいた。京都大に入学手続きしたのは230人であり、差し引き235人つまり、学部合格者の半数以上にソデにされたことになる。
京都大学の理学部長はこう嘆いている。
「東大が巨人で、京大が阪神ということですわ。やっぱり阪神は巨人に弱い。それが具体的に証明されたわけですよ」(「サンデー毎日」1987年4月12日号)
日本の大学で最難関とされる東京大理三(いわゆる医学部進学コース)と京都大医学部にダブル合格した受験生も50人以上いると、予備校関係者は推測していた。
1987年東京大理三合格者高校ランキング上位校は次のとおり。
(1)灘24、(2)開成11、(3)ラ・サール9、(4)武蔵(私立)、東海は各4、(5)麻布、栄光学園、桐蔭学園、桐朋、広島学院、洛星は各2(大学通信調べ)。
理三の定員は90人、そのうち、26.7%は灘が占めていた。そして、そのほとんどが京都大医学部を受験している。結果はどうだったか
「灘史上、最高の秀才」「オウム幹部」…W合格の「神童たち」
この年、灘から理三に進んだ、上昌広さん(医療ガバナンス研究所理事長。元東京大学医科学研究所特任教授)に話を聞いてみた。上さんは京都大医学部にも合格している。
「この年、灘は例年以上に優秀な生徒が多かったようです。理三合格者はほぼ全員、京大医に受かっています。このなかには、伝説的な秀才、岡田康志君、そしてオウム真理教幹部2人がいたんじゃないかな。みんな東大に入学したので、京大医学部は辞退者が続出してえらくプライドを傷つけられた、という話を聞きました」