『皇国の興廃この一戦にあり』
各担当者の考えが、いつのまにか、変ってしまった。奇妙なことであった。この間に、終始変らないのは、牟田口軍司令官の計画と自信であった。
大本営がウ号作戦を認可したのは、年の改まった昭和19年1月7日であった。大本営陸軍部指示により、つぎのように伝えられた。
〈大陸指第1776号
南方軍司令官はビルマ防衛のため、適時当面の敵を撃破して、インパール付近、東北部インドの要域を占領確保することを得〉
このようにしてインパール作戦が実施されることにきまった。
牟田口軍司令官は12月の兵棋演習が終った時は、得意満面であった。インパール攻略のわくはあるにしても、インドのアッサム州に進攻する機会と可能性は、そのなかにじゅうぶんに残されていた。牟田口軍司令官の生涯の念願は、実現させることができるのだ。
演習のあとで、牟田口軍司令官は訓辞をした。そのなかで『皇国の興廃この一戦にあり』と、日露戦争のゼット旗信号の字句を呼号し、さらに次のようにのべたという。
《予は軍職にあること、まさに30年。この間いろいろの作戦を体験したが、いまだかつて、かかる必勝の信念をもって、作戦準備をしたことはない。インパール作戦の成功は、今や疑いなしである。諸官はいよいよ必勝の信念を堅持し、あらゆる困難を克服し、ひたすらその任務に邁進せよ》
牟田口軍司令官の胸中にあふれた、自信と得意と喜びのほどを知ることができる。これほどにインド進攻を熱望するようになった動機はどのようなものであったろうか。
死なせてくれんか
昭和18年5月、稲田副長をメイミョウに迎えた牟田口軍司令官は、会談中に、満州にいた当時の話を持ちだした。
「あの時、お前にたのんだことがある」
蘆溝橋事件の2年後のことで、関東軍の第4軍の参謀長だった牟田口少将は、大本営から派遣された、北満視察途上の稲田作戦課長にたのんだ。
「結果がよい悪いは別として、おれは蘆溝橋で第1発をうった時の連隊長として、責任を感じている。どうしても、だれかを殺さなければならない作戦があれば、おれを使ってくれ、とたのんだのをおぼえているだろう」といってから、態度を改めて、
「おれの気持ちは、あの時と同じだ。ベンガル州にやって、死なせてくれんか」
8期も後輩の稲田副長に、これほどにたのむのは、本心に違いないと思われた。しかし稲田副長は遠慮のない答えをした。
「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」
インパール作戦が実現しても、牟田口軍司令官はインドで死ななかったが、日本は崩壊してしまった。死を口にするはたやすいが、死を実行することはむずかしい。