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 アスランはそれを「社会的反抗の手段としての反動的帰属意識」「身近な居住地で感じる悲憤と地球規模の悲憤を意図的に関連づけることによって形成される帰属意識(アイデンティティ)」と呼びました(『仮想戦争 イスラーム・イスラエル・アメリカの原理主義』)。自分が不当な地位に置かれ、悲惨な境遇を味わっているのは、グローバルな金融資本と軍事力の総本山であるアメリカ帝国主義による世界支配のせいだと考え、過激派組織が用意した闘争の舞台で「想像上の聖戦」に参加する――それによって崇高なミッションを持つ新しい自分を発見するのです。ここで彼・彼女たちが獲得したのは、まさに「被害者としてのアイデンティティ」とでも言うべきものです。

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被害者としてのアイデンティティ

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 このような被害者としてのアイデンティティは、わたしたちの日常に少しずつ浸透してきています。平成以降、特に安倍政権下で、自らを「新自由主義の被害者」であるとか、「戦後の憲法の被害者」であるとか、というふうに自己規定をする傾向が如実になっていきました。人種や世代、ジェンダー、サブカルチャー等々、膨大な種類のクラスターに細分化された人々が、ネット上で絶えず「生きづらさ」の真因について啓蒙され、「被害者としてのアイデンティティ」に目覚め、自分たちが帰属するグループを差別したり、茶化したりする他者を格好の敵に仕立てるのです。それはいわば「『いいね!』戦争」に促進された一億総「部族主義」の時代と言っても過言ではありません。オンライン上では、いかなる極端な少数意見であっても賛同者が得られ、まるでオーソライズ(公認)されたかのように拡散されるため、嫌でもソーシャルメディアのタイムラインに飛び込んできます。この「不愉快な言説への接触」がさらなる被害者意識を作り出す発火点になり得ます。そうして、最終的にはまるで部族間対立のように自分たちが奉ずる信仰を冒涜したり、背いたりする他者を殲滅する必要性が生じるのです。安倍政権をめぐる前述のバッシングの応酬は、その最も分かりやすい例といえるでしょう。「安倍晋三という巨悪をめぐる聖戦」というわけです。敵対勢力との戦いは、人生に閉塞感を抱えている人ほどそれが突破口に映ってしまうものです。ソーシャルメディアは「部族主義」の坩堝であり、見本市であり、きらびやかで残酷な劇場であり、そこでは空っぽで不安定な自己をもてあますアイデンティティの危機が、被差別的境遇からの回復という大義名分によってたちまち補填されるのです。