“茂さんのトイレは長いな”
詩織が知人とひとしきり電話でおしゃべりして居間にもどると、茂は、相変わらずの姿のまま、ずっとテレビを見ながらビールを飲み続けていた。詩織はもう一度茂に、明朝、確実に起こしてくれるよう念を押して布団に入り、ようやく深い眠りに落ちた。
〈ラジオから流れてくる話声で私は目覚めました。でも、ぐっすり眠っていたようで、すぐには目を開けられず、頭が働き出すまで、数分間必要でした。私はラジオの賑やかで少しばかり、いらだたせられるような笑い声を聞きながら、やっと目覚めました。すると頭のどこかが、私に信号を発信してきました。お前には、やらなければならないことがあります。それも今すぐにと。何のこと、そう洗濯です。その上、私は「先生」として洗濯するのです。このことが私を妙に興奮させました。〉
詩織は慌てて飛び起き電灯をつけた。
〈あれ茂さんがいません。トイレにでも行っているのでしょうか。でもそんなことに構ってはいられません。洗濯です。洗濯です。風呂場へ行き灯りをつけました。寒い。私はパジャマのまま来てしまったのです。我慢して洗うべき服を一着一着簡単に小分けし、洗濯機に入れて洗剤をひとさじ入れ洗濯機のボタンを押しました。水が勢いよくシャーっと音をたてて流れてきました。
あわてて布団にもどり“茂さんのトイレは長いな”と思いながら再び心地良い眠りのなかに陥ろうとした時、突然冷たいものが触りました。
朝の静寂を切り裂いた叫び声
「冷たい! 触らないで」
思わず中国語で叫んでいました。茂さんがトイレから戻ったのでしょう。その冷たさに思わず彼の体を避けていました。そして、再び布団の暖かさに私はいつしかまたまどろみはじめました。でも、布団の温度があがってきても、もうあの恍惚とした感覚は戻ってきませんでした。
代わりに「もうすぐ起きる時間だぞ」というメッセージが、頭の奥から発信されていました。このぬくぬくと暖かい布団は、とても魅力的で、もうちょっと寝ていたくなります。いや、まにあわない……でも私はまだ起きられません……。〉
そんな詩織の夢見心地の状態を破ったのは、朝の静寂を切り裂いて聞こえてきた断末魔の獣のような叫び声だった。茂が飛び起きた。そして「誰だ!誰だ!」と叫びながら詩織を強く蹴ってたたき起こした。