日本野球界への復帰を目指したトライアウト参加表明やRIZINの榊原信行CEOからの総合格闘技参戦オファーへの応酬……引退から10年以上が経つ現在もなお、世間をにぎわせる新庄剛志氏。常に破天荒なイメージがつきまとうが、最も近くでその姿を見ていた元妻は彼とのかつての生活、そして現在について何を思うのか。
現在もモデル・タレントとして活躍する大河内志保氏の著書『人を輝かせる覚悟 『裏方』だけが知る、 もう1つのストーリー』より、元夫新庄剛志との出会い、そして知られざる素顔を引用し、紹介する。
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当時は、阪神って何? という状態
私たちが出会ったのは、1992年の11月、船上でのことでした。テレビ番組の「船上クルーズ対談」という企画で、クルーザーに乗って沖縄の石垣島を航海しながら、彼にインタビューする仕事です。
当時、私はクラリオンガールの任期が終わるころ。この仕事のために羽田空港に向かっているときには、その出発が私の人生を大きく変えるものになるとは1ミリも予測していませんでした。
当時の私はいわゆる野球音痴。知っていたのは父がテレビで熱心に見ていた巨人のことだけ。「野球ってなんで10回までじゃなくて9回なの?」「セ・リーグとパ・リーグってどう違うの?」というレベル。当然、阪神って何? という状態でした。
阪神の選手たちは、そのとき、ちょうど石垣島で自主トレ中。私も前日から石垣島に入って、阪神の選手たちが宿泊するホテルの別棟に泊まることになりました。事前にインタビューのお相手は、ピッチャーの方と伺っていたので、自分なりに父に話を聞き、専門誌を読んで下取材。しかし当日急に、新庄剛志選手の取材許可が取れたとスタッフが騒ぎ始めました。
彼は1992年のシーズンで亀山努選手とともに亀新フィーバーを巻き起こしたばかり。スタッフは大喜びですが、私は彼についての予備知識がほぼゼロの状態。慌ててスタッフさんが書いた質問事項を渡されました。
第一印象は「田舎のジャニーズ」
スラッとした体型に茶髪でうつむきながら歩いてきた入団3年目、20歳の彼は、まだあどけない顔で、年下のように見えました。スタジャンを羽織って、でも足元を見るとヴェルサーチのメダルがついた革靴。ちょっとちぐはぐで、第一印象は「田舎のジャニーズ(ごめんなさい)」でした。
今思えば、まだ発展途上な彼らしい姿だったのかもしれません。
前日の深夜、宿泊していたホテルでのどが渇き、ロビーまでジュースを買いに行ったら、遠くから指をさして「志保ちゃんだ!ほら志保ちゃん」と叫んだ人がいたことを思い出しました。すぐに仲間に引き戻されてどこかへ行ってしまったので、誰だろう?と心に残っていたのです。