1999年4月14日、山口県光市の団地アパートの一室で起きた母子殺害事件。当時18歳だった少年は抵抗する女性の頸部を圧迫して殺害した後、屍姦し、傍で泣き止まない生後11ヶ月の娘を床に叩きつけ、首を絞めて殺害すると、女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。公判では検察が少年に死刑を求刑。一審二審ともに無期懲役となったものの、最高裁が判決の見直しを求めて広島高裁に差し戻した。死刑でないのはおかしい――最高裁はそう判断したのだ。

 その差し戻し審の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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最年少の死刑判決者

 そんな弁護人と被告人とのやりとりを聞きながら、ひとつのことを思っていた。

 こんなストーリーを誰が考えたのか。

 弁護人か。

 被告人か。

 双方の合作か。

 肉体がそうであったように、犯行当時18歳の少年は確実に大人になっていく。塀の中の生活とはいえ、弁護人との対話や、外部からの差し入れで新しい情報は少年の成長に少なからず寄与していく。独り考える時間ならば、たっぷりある。大人になった少年が、あの頃の自分を振り返って、ことさら稚拙さを強調する弁明。犯行から8年の歳月を経て、再び死刑の裁きの場に立たされた少年が、あの頃には思いつかなかった詭弁を弄するようになった証なのだろうか。

 もし、そうだとしても、それをそのまま弁護の主柱に置くことが、被告人の利益となることだったのだろうか。

 それまでの主張を一転させることで、法廷は混乱する。死刑を示唆する最高裁の意向にも抗うことはできる。

 しかし、それが死刑回避に結び付く弁護活動といえるのだろうか。

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 どうしても、被告人がそう主張したい、というのであれば、その意向を汲むことも必要だろう。しかし、そこに合理性がないのであれば、これを諭して、真実を見極めることも弁護人の役割ではなかったのか。

 まして、被告人は犯行時18歳の少年だった。それも、誕生日が3月15日。犯行日時が4月14日であるのだから、わずかに30日を超したに過ぎない。18歳未満であれば、少年法の規定で死刑にはできない。30日の差が死刑の分水嶺であると同時に、これがおそらくは日本最年少の死刑判決者の誕生となるのだった。

 そこでいまさらながらに、犯行時の少年の未成熟、精神的未発達を強調するのだとしても、あまりにも都合よくでき過ぎた物語でしかなかった。

 死刑反対運動の情動の基盤の上に、この少年が載せられて、新しいストーリーが構築されていった、そんなふうにしか、ぼくには思えなかった。