起訴された案件だけで7人が死亡している「北九州監禁連続殺人事件」。

 もっとも凶悪な事件はなぜ起きたのか。新証言、新資料も含めて、発生当時から取材してきたノンフィクションライターが大きな“謎”を描く(連載第34回)。

写真はイメージ ©️iStock.com

松永太の経歴とは

 松永太は1961年4月28日、福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)で畳店を営んでいる両親のもと、長男として生まれた。

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 1968年10月頃には、祖父が「松永商店」という名で営んでいた布団販売業を、父親が引き継ぐことになり、実家のある福岡県柳川市に家族で移り住んでいる。

 こうした経歴は、公判のなかの検察側冒頭陳述によって明かされた。だが、2003年9月3日の第6回公判では、松永弁護団による冒頭陳述によって、さらに詳しい松永の経歴が明かされた。

北九州監禁連続殺人事件をめぐる人物相関図

 まずは〈出生から中学時代まで〉について触れられているが、あくまでも検察側の甲号証(犯罪事実に関する証拠で被告人の供述調書等を除いたもの)に準拠したものが多くを占めていることを、事前にお断りしておく。なお、その内容の真偽についての、私による検証結果は後述する。弁護人による陳述は以下の通りだ。

幼少期・小学校時代

(1)幼少時代

 被告人松永は、昭和36年4月28日、北九州市小倉北区において、畳屋を営む父松永××(本文実名、以下同)と母松永××との間の長男として出生した。

 被告人松永は、2歳違いの姉との仲も良く、姉が外で苛められて泣いて帰ってくることがあると、代わりに自分がやっつけてやると言って外に飛び出して行くこともあった(検甲493号証4ページ)。

 被告人松永は、小学校に入学して間もない昭和43年10月ころ、父が祖父松永××の布団販売業を引き継いだことなどから、父の実家がある柳川市に、父母らと共に転居した。

 

(2)小学校時代

 被告人松永は、生来頭はよく、家ではたいした勉強をしていなかったが、成績はほとんどオール5を通した(検甲493号証5ページ、検甲496号証5ページ)。

 被告人松永は、だれに対してもはっきりと自分の意見を言うタイプの性格であり、他の児童らからも一目置かれていた。そのため、被告人松永は、常にクラスのリーダー的存在となっており、学級委員長を何度も務め、生徒会の役員にも就いたことがあった。

 また、被告人松永は、このころからすでに読書好きであり、夜は家で自叙伝の類のノンフィクション作品をたくさん読むなどしていた(検甲496号証5ページ)。