1999年4月14日、山口県光市の団地アパートの一室で起きた母子殺害事件。当時18歳だった少年は抵抗する女性の頸部を圧迫して殺害した後、屍姦し、傍で泣き止まない生後11ヶ月の娘を床に叩きつけ、首を絞めて殺害すると、女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。公判では検察が少年に死刑を求刑。一審二審ともに無期懲役となったものの、最高裁が判決の見直しを求めて広島高裁に差し戻した。死刑でないのはおかしい――最高裁はそう判断したのだ。
その差し戻し審の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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悔悛の情を引き出す手立てはなかったか
判決は、最後にこう締めくくった。
「上告審判決を受け、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したものの、(中略)むしろ、被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことにより、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見出す術もなくなったというべきである」
忌憚のないところをいえば、この弁護士たちが少年を殺したに等しい、ぼくはそう思っている。
“人権派”に名を借りた“死に神”と呼びたくなる。
あるいは、手塚治虫の世界でいえば、『ブラック・ジャック』に出てくるドクター・キリコといったところか──。
もっと、この少年の悔悛の情を引き出す手立てはなかったのか。
たとえば、あの拘置所から送られた手紙。
一審で無期懲役であったことを勝ち誇ったように書き連ねたあの手紙には、もっと分量があって、もっと様々なことが書き綴られていた。
包み隠さず言えば、ぼくはその手紙の文面を見ている。取材の過程で目にすることがあった。
諸々の事情で、その内容をここに披露することは躊躇われるものだが、しかし、彼の書いた手紙には、悪ふざけの中にこんな文面だってあったのだ。