「鍵を預けておくから。冷蔵庫のもので適当に食事して、あとお風呂も入っていいからね。火元だけ気をつけてね」
明後日の朝には帰ってくるから――。そう言われ、課題を与えられた僕は家の鍵を受け取り、車で出かける2人を見送った。
「みさちゃん、みさちゃん……」
そして僕は、そのアトリエで一人で過ごす事になった。しかし、いざ一人になってみると全くやる気が出ず、初日は一日中寝袋で過ごした。すると、「みさちゃん、みさちゃん、みさちゃん」と、唐突に耳元で男の低い声が聞こえ、目が覚めた。
すぐに辺りを見渡すが、誰もいない。確かに聞こえたはずだが、寝ぼけていたのか……。そう思い、僕はしっかり目を覚まそうとアトリエの外に出た。すでに時刻は夕方になっていた。山の斜面から山風が降りてきて、麓にある先生の家はものすごく寒かった。
僕はアトリエに戻って、また寝袋に入ることにした。それから何時間か経った頃、浅い眠りの中で「ピーーーーーーー」というラジオのノイズ音が聞こえて目が覚めた。薄く目を開けると、辺りはもう暗くなっていた。アトリエの外からはそのノイズ音に絡んで、「カラ~ンカラ~ン」と下駄の音のようなものも聞こえた。
そして、翌日の夜もまた……
先生が帰って来たのかと窓から外を見たが、そんな様子はない。しかし、ノイズ音と下駄の音は続き、やがて小さく歌も聞こえてきた。それは井上陽水の「傘がない」だった。アトリエには先生の趣味であるフォークソングのレコードが置いてあり、休み時間によくこの曲をかけていたので知っていた。
「酔っ払いでも来たんだろう」。そう思った僕は再び寝袋に入り、そのまま課題にも取り組まずに眠りについた。
次の日は昼頃に目覚めたが、この日もやる気は起きず、少し絵を描くと後は寝袋でゴロゴロしていた。ほぼ何もしないまま夜になり、ウトウトとしていると昨日と同じ「ピーーーーーーー」というノイズ音を耳にした。やがて「カラ~ン」という下駄の音、続いて「傘がない」が聞こえてくる。
「昨日と一緒の酔っ払いやな……」。どうやらこの人は、ラジオを持ちながら歩いているようだ。この日は下駄の音を鳴らしながら、家とアトリエを何回か往復してから去っていった。