力道山、ジャイアント馬場の好敵手として、昭和のプロレス界を大いに盛り上げたザ・デストロイヤー。歴史上初めてヘビー級トップ戦線で活躍したマスクマンは、日本のプロレスファンを熱狂の渦に巻き込み、その人気はリング外にも波及。バラエティー番組に引っ張りだこになるほどの活躍ぶりだった。
多くの日本人から愛されたそんな彼が亡くなったのが2019年3月7日。ここでは日本を代表するプロレスライターである斎藤文彦氏の著書『忘れじの外国人レスラー伝』より、ザ・デストロイヤーの活躍、そして彼の最期について、引用し、紹介する。
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力道山の生前最後の対戦相手
初来日から6カ月後の1963(昭和38)年11月、再来日したデストロイヤーは、『デストロイヤー・シリーズ』12連戦の地方巡業をまわりつつ、こんどは東京と大阪で2回、力道山が保持するインターナショナル王座に連続挑戦した。このタイトルマッチ2試合については当時の専門誌(『プロレス&ボクシング』64年1月号)に掲載された記事から本文を抜粋して引用する。
12月2日の東京体育館の試合リポートを担当した大須猛三(おすもうさん)は、漫画家、元力士、新聞記者、放送作家、演芸評論家といった多彩なプロフィルを持つ小島貞二さんのペンネームで、大相撲時代から力道山と親交のあった小島さんは、昭和30年代から昭和50年代半ばまでプロレス関連の随筆もひんぱんに書いていた。小島さんは1919(大正8)年生まれだから、この記事を執筆した時点では44歳。小島さんの独特のリズムとその日本語表現からはこの日の試合会場の空気をはっきりと読みとることができる。記事中の旧漢字と漢数字の用法、送り仮名の表記は原文のままとした。
力道山 デストロイヤー バック・ドロップと足4字
「なにがなんでも勝つんだ!」という男の執念が火花散らした決戦だった。私は、このおそるべき名勝負を北側のリングサイドの「Aの18」という最前列の席で見た。(中略)今まで力道山は、デストロイヤーと二度やり、一敗一引き分けに終っている。まだ一度も勝ってない。ルー・テーズにもブラッシーにも勝っている力道山にとって、デストロイヤーは「まだ勝ってない世界唯一のレスラー」なのだ。「借りはかならずかえす」と宣言して、わざわざアメリカから呼んだ男、それがザ・デストロイヤーなのである。(中略)
魔王は顔の前で両手でXをつくって防ぎ、あわててロープ下にとびおりた。力道山の空手の威力は、五月の試合でイヤというほど知っている。防御に工夫のあとが見える。(中略)このあたりまで、デストロイヤーが六、力道山が四といった攻防だ。相手の出方をうかがう冷静さが、力道山のひとみの中に感じられた。真のハッスルはまだ爆発していない。(中略)ロープにぶっつけ、はねかえるデストロイヤーの胸元めがけて、右にひらいての水平斬り。それもたった一発! ダーッ! とぶっ倒れた魔王。のしかかった力道山は、もうエビ固めの体勢をかためておさえこんだ。(中略)