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日本を愛し、日本に愛された昭和の名レスラー…“ヘンなガイジン”デストロイヤーの知られざる最期

『忘れじの外国人レスラー伝』より #1

2020/12/07
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ハワイの海に散骨

 デストロイヤーと日本は、不思議な運命の糸で結ばれていた。

 40代になった“白覆面の魔王”は、1972(昭和47)年12月、発足まもないジャイアント馬場の全日本プロレスに登場。「この試合に負けたら“日本組”に入る」という条件で馬場とシングルマッチで対戦して敗れ(12月19日=新潟)、約束どおり全日本プロレス所属となった。“王道”全日本プロレス第1章の主力メンバーは馬場、ジャンボ鶴田、デストロイヤー、“オランダの柔道王”アントン・ヘーシンクの4人だった。

 アメリカ人レスラーとしては初めて日本の団体所属選手となったデストロイヤーは、それから約7年間、東京に在住することになる。それはデストロイヤー自身の決断であり、家族の選択だった。多感な10代を日本で過ごした長男カートと長女モナ・クリス、まだ幼かった次男リチャードは日本語がペラペラで、日本の文化を愛するアメリカ人になった。

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TVタレントとしての活躍

 “ヘンなガイジン”デストロイヤーは、テレビ・タレントとしてバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系)にレギュラー出演し、和田アキ子、せんだみつお、あのねのねら人気タレントとコントを演じてお茶の間の人気者に変身。フリーキャスターの草分け的存在で、当時はまだスポーツ担当の局アナウンサーだった徳光和夫は、番組内でデストロイヤーに足4の字固めをかけられ、その場面をみずから「くるぶしからヒザの半月板は鋭痛、太ももは鈍痛、脳天に突き抜けるような痛さであります!」「太ももから五臓六腑に、そして脳天から激痛が突き上げた!」と実況して大ウケしたことがきっかけでバラエティー路線を歩みはじめた。

©iStock.com

 現役選手としては円熟期を迎えたデストロイヤーは、アブドーラ・ザ・ブッチャーと因縁ドラマのロングランを演じ、“覆面十番勝負”ではミル・マスカラス、ミスター・レスリング、ザ・トルネード(ディック・マードック)、ザ・スピリット(キラー・カール・コックス)、カリプス・ハリケーン(サイクロン・ネグロ)、スーパー・デストロイヤー(ドン・ジャーディーン)ら10人の“刺客”を倒して“マスクマン世界一”の称号を手にした。

 “日本組”としての最後の試合は、やっぱり馬場とのシングルマッチだった。友人であり、ライバルであり、おたがいによき理解者であったデストロイヤーと馬場は、もういちどだけシングルマッチで闘い、こんどはデストロイヤーがバックドロップで馬場からフォールを奪った(79年6月14日=東京・後楽園ホール)。