日本初のハイジャック事件として、今もなお語られることの多い「よど号ハイジャック事件」。事件が起きた1970年3月31日からは50年が経ち、ハイジャック発生当時はわからなかった新たな情報・証言がいくつも明らかになってきた。
ここでは、日本テレビのアナウンサーとして数々の事件を報道してきた久能靖氏による著書『実録 昭和の大事件「中継現場」』を引用し、当時の事件の顛末を改めて振り返る。
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福岡空港を発つと柔和になった赤軍派
こうして「よど号」はピョンヤンに向けて福岡を飛び立った。しかし福岡で解決できると判断していた政府は大あわてであった。北朝鮮に安全を保障してもらわなくてはならないからだ。板門店の軍事委員会を通じて米国側から北朝鮮側に依頼してもらったり、日本赤十字社が朝鮮赤十字社に打電したり、あらゆる手を尽くしたが、北朝鮮側からの反応は何もなかった。念のため韓国に降りることもありうるかもしれないと韓国側にも頼んであった。
福岡を発って初めて食事が配られた。赤軍派がいっさいの差し入れを認めなかったため、機内食として用意してあった朝食用のサンドウィッチだったが、乗客の間にようやく少し落ち着きが見られた。
いよいよピョンヤンに行けるというので赤軍派の連中もぐっと表情がやわらぎ、「まだピョンヤンまで時間がかかりそうですので、希望者には読み物を貸しましょう」といい出した。誰も返事をしなかったが、日野原院長だけが『カラマーゾフの兄弟』を借りた。五冊の文庫本だったが、1、2ヶ月抑留されてもいいようにわざと大作を選んだという。日野原院長の記憶力はすばらしくこの時赤軍派が挙げたたくさんの書物の名前や音楽にも造詣が深く、機内に流れていた音楽の題名までよどみなく次から次へと出てくるのには驚いた。やはり医者ともなると冷静なんだと感心した。
後日、乗客の1人が「ハイジャックってどういう意味だ」という質問にたいして赤軍派が答えに窮していた時、「私が答えてあげるから縄をほどいてくれ」と手を挙げ、「追いはぎみたいなことをするのがハイジャックで、飛行機ならそれを乗っとることだ。ハイジャックする奴がハイジャックの意味ぐらい勉強しておいてほしいね」といって客室が爆笑に包まれるほど肚の据わった人でもあった。