赤軍派が起こした日本最初のハイジャック事件「よど号ハイジャック事件」から50年。首謀者はどのように「よど号」の乗っ取りに成功したのか、どのように北朝鮮に向かうつもりだったのか……
日本テレビのアナウンサーとして数々の事件を報道してきた久能靖氏が、歴史の生々しい瞬間を詳細に振り返った一冊『実録 昭和の大事件「中継現場」』より、「よど号ハイジャック事件」当時の緊迫、さらにその後の取材で判明した衝撃の事実を引用し、紹介する。
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男性客が機内に持ち込んだ筒状の荷物
1970年(昭和45)3月31日、東京は彼岸を過ぎたとは思えない寒い朝を迎えていた。しかし絶好の飛行日和で、午前7時20分発福岡行きの日航機「よど号」はほぼ定刻通り羽田空港を飛び立った。
この旅客機ボーイング727型機は米国ボーイング社製の短・中距離用で、その後に誕生する大型ジェット機に比べれば小さかったが、当時としては世界の空を飛び回るベストセラー機だった。この日の乗客は幼児2人を含む131人で、満席であった。まだ搭乗口に金属探知機もない時代で、機内に持ち込む手荷物の検査もそれほど厳しくはなかった。このため数人の男性客が大きな筒状のものを機内に持ち込んでも、とがめだてはなかった。
羽田を発った「よど号」が東京湾上空で旋回して高度をとり、機首を西に向けて安定飛行に入った直後、江崎悌一副操縦士からコックピットに飛び込んできた2人の男に、「このままピョンヤンに行け」と脅されているという緊急連絡が入った。
まさか日本で起こるとは思っていなかった“ハイジャック”
「よど号」がハイジャックされたのだ。航空機を乗客もろとも乗っ取るハイジャックは1931年に南米ペルーの革命派が国内旅客機を乗っ取って以来、多発するようになっていたが、とくにパレスチナゲリラがパレスチナ解放闘争の政治的戦術として行なっていたものの、まさか日本で起こるとは誰も考えていなかったのである。
事件が起きた時「よど号」は横田のエリアを飛行中であったが、ここは米軍が管制するエリアだったため、横田だけでなく、東京の管制センター、それに当然日本航空にも緊急連絡は入っていた。その報せとともに航空自衛隊の小松基地、築城(ついき)基地、新田原(にいたばる)基地からF-86F戦闘機が次々とスクランブル発進し、「よど号」を追尾した。
一方、ハイジャックの報を受けて羽田にある日航のオペレーションセンターの中に急遽、対策本部が設けられ、私はただちにそこに向かうよう指示された。しかしその時すでに「よど号」は給油するため一旦福岡空港に降りること、今どの辺を飛行していて何時頃到着するのかという程度の発表しかなかった。日航でも機内の様子がいっさいわからないのだから仕方がなかったが、オペレーションセンターからはほとんどリポートのしようがなかった。それに福岡に到着してからは系列局の福岡放送のアナウンサーが、ソウルに到着してからは駐在の記者が伝えたので私の出番はほとんどなく、オペレーションセンターに詰めていながらいらいらした時間を過ごさざるをえなかった。