人質の解放
やっと給油を終えた「よど号」が滑走路に移動した午後1時35分、突然機体前方の搭乗口のドアが開き、抜き身の日本刀を振りかざした1人の男が横付けされたタラップの上に姿を現すと、少し間を置いて子供を連れた母親と老人、あわせて23人がタラップを降りてきた。女性と子供を降ろすことを犯人側が受け入れたためだが、降りてきた23人を乗せたバスが機体のそばを離れると、再びドアは固く閉められ、午後1時55分、「よど号」は突然滑走を始めた。その瞬間、滑走路上にいた車はくもの子を散らしたようにあわてて避けたが、この時機体の後方から1人の男が転がり落ちる姿が、各局のテレビカメラでもはっきりととらえられていた。
じつは対策本部では、燃料タンクのバルブを閉めて飛行できないようにしようとしていたのだ。転がり落ちたのはバルブを閉めようとした整備員だったが、失敗に終わった。しかしもし閉めることに成功していたら燃料が流れず、飛び立てたとしても途中で墜落していたかもしれない。事件後、そのことを知ったという石田も江崎もなんという馬鹿げたことをしてくれたのかと怒りを口にしている。
日航には「ハイジャックに遭遇した場合」の服務規定があった
このフライトは石田の独断であったが、じつは日航が前年に出した「ハイジャックに遭遇した場合」の乗務員の服務規定には次のように明記してあった。「万が一ハイジャックされた時には、乗務員は小細工を弄することなく不法者の希望に逆らわないようにしなければならない」。もちろん石田も江崎もそのことは充分承知しており、その規定通りに対処しようとしていたのだ。その規定を守っていないのはどう見ても会社側であったが、この誠意のない会社の対応に、石田はこうなったら自分が判断せざるをえないと考えたという。
一方、乗客はこの時どう考えていたのだろうか。乗客の1人だった聖路加病院の日野原重明院長はその時の心境を院長室で次のように話してくれた。
「私らとしては、あまり赤軍派にうるさいことをいわないで、早く『よど号』を飛ばしてほしいと願っていたのです。たとえ北朝鮮に連れていかれても、命までは取られないだろう。『よど号』を飛び立たせるのを拒めば、彼らは飛行機を爆破する危険がある。そうしたら乗客は死んでしまう。だから早く飛び立たせてほしいという点では、我々も赤軍派も同じ気持ちだったんですよ。彼らが安全なら、我々も安全。ご無理ごもっともで、赤軍派の希望をかなえてほしいと思っていたのです」。
このように事件発生当初から《早く北へ》と希望する機内と《何とか阻止しよう》とする機外とでは、明らかに温度差があったのだ。