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新橋~横浜間で「最終18時」だった日本の終電…どうしてこんなに遅くなった?

2020/12/07
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新橋~横浜間「最終18時」あまりに早すぎる“終電のはじまり”

 というわけで、ここで時計の針を巻き戻す。昔の終電って、何時頃だったのか。そしてどのようにして遅くなってきたのか。そのあたりを調べてみることにしよう。

 我が国に初めて鉄道が通ったのは明治はじめの1872年。新橋~横浜間で、その時の終電は18時。それじゃあいくらなんでも不便ではなかろうか、と思ってしまうがそもそも1日9往復だけで、通勤通学に気軽に鉄道を使うような時代ではなかったのだから最初から終電が早いと不便という概念がない。

 終電がどうのこうのと話題になりだしたのは、どうやら早くとも大正時代以降のことのよう。関東大震災を経て都心から郊外に居を移す人が増えて、今のように“郊外の住宅地から都心の職場に通勤する”というスタイルが確立したのがこの頃だからだ。

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 通勤客の利用が増えてくると終電時間も見直される。1924年9月17日、首都圏の通勤電車の終電時刻が繰り下げられることが当時の新聞記事に載っている。それによると、中央線東京駅発中野行の終電が23時8分発から23時32分発になったという。

 その後も終電時間の繰り下げは続き、太平洋戦争がはじまる間際の1941年は同じ中央線で東京駅0時49分発(中野行)。戦時中は鉄道利用に一定の制限がされたり空襲で被害を受けたりしたこともあって終電時間は必然的に早くなったが、戦後まもなく再び終電は遅くなる。

 1948年4月には郊外への私鉄各線が終電繰り下げを実施しており、最も遅いのは京王線で新宿駅0時20分発(桜上水行)。今でも東京の私鉄では京王線の終電が一番遅く、京王の伝統のひとつなのだろうか。

 戦後は復興、そして経済成長とともに小刻みに終電時間が遅くなってゆく。大幅な繰り下げに踏み切れなかったのは、今回の終電繰り上げと似たような理由、すなわち保守作業等の時間確保という課題があったからだろう。保守整備に使う道具もいまはだいぶ進化しているが、そうでなかった昭和のあの頃、かなり大変だったのではないかと思う。

電車に替わって登場した「深夜バス」

 しかし、人びとの暮らしは確実に夜型に変わってゆく。“朝活”などという意識高めの言葉が登場したのはかなり最近のことで、夜遅くまで働いて酒を飲んで帰るというのが昭和の企業戦士たち。終電に駆け込んで間に合えばまだいい方で、終電を逃すこともしばしばだった。となれば、電車に替わる帰宅手段が求められる。そこで登場したのが深夜バスである。

「深夜バス」に大きな期待がかかったことも ©iStock.com

 深夜バスは東京から大阪まで夜通し走る夜行のバスではなくて、終電後に都心から郊外に走るバスのこと。だいたい、東京などの都心であっても最終バスは電車よりも早いのが常。ただ、電車が終電間際まで混雑する中で、バスが早々に店じまいしてしまっては困る人もいたのだろう。1970年にはわざわざ運輸省が「終電までバスを走らせろ」と通達を出しているほどだ。深夜バスの需要は年々高まっていった。