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バブルで過熱した「日本の夜」

 そうして日付が変わってから帰宅する“午前様”(この言葉もすっかり死語になりました)が珍しくなくなってゆき、1980年代なかばにはいまも懐かしバブルへGO。

 夜な夜なディスコで踊り明かした若者たちも多かったあの頃、終電を遅くしろ! という圧力は年々高まっていった。タクシーで帰ろうにも札束振りかざしてようやく乗せてもらうご時世で、深夜バスの拡充などの対応はしたものの焼け石に水。

 1988年にJR東日本が金曜日の夜限定で23時以降の増発、1989年に営団地下鉄(現・東京メトロ)が終電繰り下げと夜間の増発に踏み切った。

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 この頃の新聞記事を見ると、社説などで「終夜運転への発展を期待」といった論調の記事が目立つ。ちょうどコンビニやファミレスの24時間営業が広まったのもこの時代。いまでは当たり前になった大井競馬場のナイター競馬も1986年スタートだ。

 定時を過ぎても残業に勤しみ、ようやく会社から出てもまっすぐ帰らず仲間と繁華街。酒に飲んで飲まれて深夜に帰る。そういう時代の先駆けで、電車の終夜運転への期待が高まるのも当然のことだ。“24時間戦えますか”のフレーズが印象に残る『勇気のしるし~リゲインのテーマ~』が流行ったのも1989年である。

歌舞伎町は今も昔も眠らない街 ©iStock.com

「アメリカの大都市では終日運転が当たり前」終電延長へ

 ただ、終夜運転は鉄道事業者のみならず警察当局が反対したらしい。1987年6月5日の読売新聞に、警視庁新宿署のコメントとして次のような一文があった。

「終電を青少年補導の一つの目安としている。時間延長されると、駅周辺で終夜の混雑が続く」

 まるで終電が終わったら新宿駅のまわりに人が減るみたいな言いっぷりだが、歌舞伎町など当時もいまも眠らない街。終夜運転でますます人が増えたら手に負えないよ、という言い訳のような気がしてしまう。

 いずれにしてもこうした世間の声に押されてか、1991年にはついに鉄道各社は大幅な終電延長に踏み切っている。最大で京急本線の32分。泉岳寺駅23時48分発が0時20分発になった。これを報じる1991年8月27日の読売新聞にも、「よけいに酒が飲める」「割の良い深夜時間帯のバイトもできる」と好意的に受け止める利用者の声が載っている。

 あげくに終電延長程度では我慢ならず、「アメリカの大都市では終日運転が当たり前。どうせなら、もっと大幅な延長を」という20代OLの意見もあった。ずいぶんとアクティブであるが、良し悪しはともかくこの時代は“終夜運転待望論”が大勢を占めていたのだ。