1ページ目から読む
3/4ページ目

 こうした経緯に続いて、山形さんは予想もしない言葉を口にした。

「こんなことを言ってもだれも信じてくれないでしょうが、ワールドの社員は全員松永を尊敬していました。いわばヤクザの親分みたいな感じで、殴る蹴るや電気を流されるなどしても、それに対しては自分に対する“喝”を入れてくれているとの思いがありました。

販売実績が上がらないなどの理由で暴行や虐待

 当時社員は、私以外に坂田、武田、野間というのがいて、坂田を除いた3人が会社に住み込みで働いていました。坂田は松永と一緒に会社を興しているなど、社員でも別格の存在でした。

ADVERTISEMENT

 私たちが住んでいたのは後に建てられた本社ビル(松永の自宅兼ワールドの事務所)の裏にある、元々は倉庫として使っていた場所で、そこで雑魚寝をしていました。食事は1日1回で、松永の家で食べたものの余りなどを貰っていました」

小学生時代の松永太死刑囚(小学校卒業アルバムより)

 山形さんの説明に、創業メンバーの日渡さんは登場しないが、彼は1984年10月頃に松永の暴力などに耐えられずにワールドから逃走しており、接触の時期が短いことから記憶に残っていなかったと思われる。なお、ワールド内部で従業員に対して振るわれた暴力の内容は、公判で検察側が明らかにしている。

〈松永は、ワールドの事務所等で、坂田と共に、武田、野間及び山形ら従業員らに対し、販売実績が上がらないなどの理由で、手拳、電話帳、バット等で殴る、足蹴りするなどの暴行を加えたほか、正座させた状態で足を踏み付ける、喉に手刀を打ち付ける、「四の字固め」をかける、指を反らす、白米やインスタントラーメンだけの食事を強いる、大量の白米を無理に食べさせる、食事時間を制限する、3日間くらいの絶食を強いる、水風呂に入れるなどの暴行や虐待を、日常的に繰り返した〉

「もし見つかったら」と思うと怖かった

 こうした状況がなぜ続いたのか。検察側は松永による「支配」との言葉を使い、社内でなにが起きていたのか説明する。

〈従業員らは、松永を怖れ(※ママ)、常に松永の機嫌を窺って行動するようになり、また、松永が従業員相互に暴力を振るわせたり、互いに監視させたりしたことから、従業員らは相互不信に陥り、互いに密告を怖れて共同して松永に反抗することができなかった。このように、ワールドの従業員らは松永に逆らうことができず、松永は従業員らを意のままに従わせて支配した〉

 前出の福岡県警担当記者は、次のように明かす。

©️iStock.com

「松永は従業員らに常々、自分が暴力団と繋がりがあるように話していました。それで『知り合いにヤクザがおるから、逃げても無駄やぞ』と脅したり、なにかあれば実家に追い込みをかけることを示唆して、従業員を逃げられなくしていたのです」

 ちなみにその後の話になるが、1985年8月頃に武田さんが、86年4月頃には坂田さんが、88年5月頃には野間さんが逃走しており、結果的に山形さんは最後までワールドに残っていた。その理由について、記者の話を裏付ける内容の言葉を山形さんは口にしていた。